秋を食べようと(そこまで大げさではないのだけど)生栗が店頭に並んでいたので茹で栗にして食べようと一袋を買ってきた。 幼かったその昔、この季節になると母は、栗を買ってきて前日の夜に硬い鬼皮を包丁でむいて(たまに手伝わされた)翌日栗ご飯を炊いていた。 貧しい家なのになぜか季節の変わり目などはその季節のものが食卓に並んでいたような気がする。 お彼岸には必ず小豆を煮ておはぎ(田舎ではぼたもちと言う)があったし、春の蓬が庭先に出るころには勿論、蓬もちが並んだ。 そのころ私は、”ぼたもち”という言葉が大きくてぼってりとした太った体を連想させたから好きでなかった事を思い出す。 本当は”牡丹餅”なのだからとてもきれいなことばなのに・・・ 先日のこと、地域のボランティアでその牡丹餅つくりをした。 おばあちゃんたちは沢山の知恵を持っている。 「うるち米ともち米の配分はこうだよ」 「あ、家はちょっと違うけど」 と、にぎやかにまずは米をたき、いよいよあんこを絡める。 「ラップを手のひらより大きめに切って手のひらにのせてね、水で湿らせるでしょ。そこにあんこをのせてその上に丸めたご飯を乗せるの。そしてラップ毎しっかりまるめる。ほら、きれいにできるでしょ」 「こうすると手も汚れないしラップも何回も使えるし便利なのよ」 「あ、ほんと、それに表面がつるつるでとってもきれいね」 「私はね、ガーゼを使うのよ。そうするとあんこがよく伸びて均一に付くし洗えばほら何回でもつかえるでしょ。それに布目があんこについてそれはそれできれいに仕上がるのよ」 「ああ、そうですねえ。それもいいですねえ」 それぞれが、一個ずつ作りああでもない、こうでもないといいながら出来上がったものを並べると大体同じ大きさに作ったご飯のはずが、外側についたあんこの量でまあ、大きさがさまざま。 大笑いしながら、あんこをはずして足りないほうにくっつけたりと楽しい時間をすごした。 こんなことをやってるときってお年寄りのほうが思い切り先生だし、私たちはいつの間にか子供に戻っている。こんな他愛ない時間をもっともっと、お互いに持てたならみんなが生き生きと暮らせるのになと改めて思う。 あ、茹で栗は皮を剥くのは甘栗と違ってちょっと大変だけどやっぱりおいしかった。
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