店主雑感
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2007年02月02日(金) 自己について

 【アイデンティティー】自己が環境や時間
の変化にかかわらず、連続する同一のもので
あること。主体性。自己同一性。

 近頃では心理学者や精神科医でなくとも普
通に使う言葉である。

 「自分とは何なのか」「自分という人間は、
自分以外の何者でもない」などといったこと
を仰々しく見出したり、あるいは見失ったり
したあげく、極めて拙い自作の詩に曲をつけ
歌うのが、自己表現だと思い込むような子供
たちを惑わすのによく使われる。

 ゆめ【夢】将来実現させたいと願う事柄。

 これも似たような使われ方をする便利な言
葉である。

 本来実現させたい願いが非現実的な場合は
夢と呼んで、比較的実現可能な範囲にある場
合は目標というべきだが「夢を夢で終わらせ
ないためには、死に物狂いの努力によって、
非現実的な夢に過ぎなかったものを実現可能
な目標に変える必要がある」などといって煙
に巻いてしまう。

 死に物狂いの努力でどうにかなるのなら、
最初から夢ではなく目標である。

 子供に対して「つねに夢を持ち続けろ」と
か「夢をあきらめるな」というのはばかげて
いるばかりではなく、とても無責任なことで
ある。子供のことを真剣に考えるのなら「常
に高い目標を持ち続けろ」「目標を立てたら、
けっしてあきらめるな」というべきなのであ
る。
 そのうえで「高い目標とは、何の分野であ
れ他者に抜きん出て、その頂点に立つことで
はない」「自己に恥じぬ廉潔な生き方を貫く
ことだ」と教えるべきなのである。

 創造することだけが自己表現なのではない。
 成功することだけが自己実現なのではない。

 新たな価値の創造や真理の発見、といった
ことは誰にでも成し得るわけではない。
 傑出した能力と幸運に恵まれたごく少数の
人間以外は、平凡な日々の生活を営む過程で、
それぞれの自己表現と自己実現の途を探れば
良い。

 こういう分かりきったことを子供の目から
隠し、誰にでも非凡な才能が備わっていたり、
思いもかけぬ幸運が訪れるかのような錯覚を
抱かせるから、猫も杓子も自分を非凡に見せ
ることにのみ腐心し、他人から平凡とみなさ
れることを死ぬより恐れ、虫の良い僥倖ばか
り夢見るようになってしまう。

 その他大勢に埋没することだけは、なんと
しても我慢がならない。
 出来もしないことで成功する夢ばかり見て、
せっかく出来ることは放棄してしまう。

 何一つ創作することもなく、毎日ラッシュ
アワーの電車で通勤する人生には自己表現も
自己実現もないと感じてしまう。それこそが
本当は感性の鈍い証拠であることにちっとも
気がつかない。

 小説は書くものではなくて読むものである。
 音楽は作曲したり、演奏するものではなく
て聴くものである。
 むかしの噺家は弟子入り志願者にむかって、
「この世界に入るというのは、大変に覚悟の
いることで、普通の人間にはとうてい辛抱で
きっこないからやめておけ」と言って、大概
断ってしまったという。
 これはけっして、普通の人間をだめだと言
っているのではない。むしろ米一粒すら作り
出す苦労を嫌って遊芸の徒に身をやつす以上
は、口に言えない辛い精進の果てでなければ
顔を上げて道を歩くのも恥じなければならぬ、
と言っているのだ。
 落語は演じるものではなく、聴いて笑うも
のである。
TVは出るものではなく、見るものである。

 あるピアニストが言っている。「どこにそ
んな大勢の音楽家といえる人がいるのかね」
「第一次世界大戦前までは家内工業的な良い
ピアノ工場がたくさん存在していた。それが
今は大半消えてしまった。残った少数の工場
は需要を満たすために、数年先まで一杯にな
っている」「一方、人間社会の繁栄は、もは
や中古ピアノで勉強することに満足していな
い。昔は一台のピアノを何世代にもわたって
使っていたのに、今はすぐ新しい楽器を欲し
がる」

 誰でもかれでもピアノを弾くようになって、
ピアノの音も演奏の質も低下した。なるほど、
最近の落語もTVも、ちっとも面白くなくな
ったわけがわかる。
 誰でもかれでも指導者、経営者、芸術家を
目指すようになって、今日の体たらくがある。

 その結果何が起こるかといえば、われわれ
大多数の人間にとって、質の良い音楽や面白
い落語に接する機会がどんどん減ってゆく、
ということである。
 一般大衆は、危機管理、安全管理、品質管
理のずさんな国家社会で不安に暮らし、低級
愚劣な文化しか享受できなくなる、というこ
とである。


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