店主雑感
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2005年06月07日(火) |
信仰について 其の二 |
大きな事故や災害に直面すると、人は運命 ということを考えずにはいられない。
人の一生にはどうしようもなく不確実性が ついてまわる。
いつどのような事故や災害に巻き込まれな いとも限らない。
いつどのようなかたちで病気や障害を得な いとも限らない。
いつどのようにして、社会的地位や収入を 失わないとも限らない。
それでなくとも、生まれたときから一歩一 歩確実に老化と死にむかって進むのが人間の 逃れられない運命でもある。
欲を捨て質素な生活をし、毎日祈りと感謝 を忘れずに、できるだけ他人の役に立つよう 心がけるなら、有意義な人生と安らかな死を 望むことができ、さらには死後永遠の平安も 保証される、とは凡そどの宗教でも教えると ころであり、それ自体は毒にも薬にもならぬ ごくありふれた人生訓にすぎない。
しかし、そのあたりまえの言葉も憑依妄想 を抱き自らを天啓者と称するような怪しげな 人物の口から発せられると変にカリスマ性を 帯びてくるからやっかいなのである。
人間にとって、欲望を捨てて生きることは とてもむずかしい。 しかし本当は欲望を満たすことの方がはるか にむずかしいのである。
欲望の対象たる大きな権力や富や才能は、 がっかりするほどわずかしか用意されていな いため、その時々で運と能力に恵まれた(天 の誰かさんに気に入られた)ほんの一握りの 人間以外は、それぞれの分に応じたけちくさ い欲望を満たすことで我慢せねばならない。
我慢できないという人々は、何らかの理由 を設けて、受け入れたくない現実を受け入れ やすい形に無理やり正当化するか、他者が持 つ優れた能力や業績をあたかも自分のもので あるかのように錯覚することで、見当はずれ な満足を得るしかない。
どう逆立ちしてもモーツァルトにはなれな い自分を直視したくない。
周囲の無理解や画一教育の犠牲者だと責任 転嫁する。
その代わり、モーツァルトの音楽世界を自 分ほどよく理解し、愛する者はいないと思い 込む。
それも、創作の才がないぶん、より良き理 解者たらんとするから、いきおい過剰な思い 込みとなる。
不幸な時代といわねばならない。 百年前の社会では、誰でも天を仰いで恃む こころをふつうに持っていた。 どう考えても理不尽な不幸に見舞われたと き、人は、たとえ誰が見ていなくても天のみ は知っていると思うことで、危く崩れそうに なる自己を支え支えして、長い間生きてきた のである。
現代では聖職者までが、あてにもならない 天などよりTVカメラに向かって祈る方が、 はるかに効果的であると心得ている。
やり場のない悲しみや腹の煮える憤りも、 いまやTVカメラにぶつけることによって、 満天下に知らしめることができる。
今この瞬間にもTVカメラのレンズは、戦 争中の砂漠から火星の表面にいたるまで、不 眠不休で真実を追い求めている。
そこでもし、如何にも真実らしくTVに映 ることさえできれば、まっかな嘘も真実とし て通るかもしれない。
けっして本物の天を欺くことはできない。 しかし、都合のいいことに天は黙して動か ない。
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