店主雑感
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2002年06月09日(日) 神の領域

 無期とは期間をあらかじめ定めないという
だけの意味で、10年もすれば仮出獄の可能
性がある現在の無期懲役にかえて終身刑を導
入し、段階的に死刑廃止を目指そうという動
きがある。

 文字通り一生刑務所に入ってなさいという
終身刑の導入は大いに賛成だが、ひきかえの
死刑廃止はいただけない。

 「汝の隣人を愛せ」とは神の教えである。
 しかし、神が人間に求めるのはつねに困難
な途である。
 人間が容易く行い得るようなことを神様が
わざわざ教えはしない筈である。
 非常に難しいことだからこそ神様も説くの
のであろう。
 それをいとも簡単に安請け合いして、他人
の子供を惨殺したような人間に「罪を憎んで
人を憎まず」などと得意顔で慈悲を垂れるの
は、むしろ神を恐れぬ不遜な行為と言える。

 わけの分からぬ妄想や身勝手な動機から殺
人を犯すような人間に一切の容赦があっては
ならない。当然極刑をもって臨み、その執行
に際して言えるのは「たとえどんなに恐怖と
苦痛の伴った死を与えてもなお充分とは言い
難いが、もしも、心の底から悔いて赦しを乞
うなら、ひょっとして、神様だけは赦して下
さるかもしれない」という事である。

 人間が赦すことができる範囲は限られてお
り、これを超えてしまえば社会を逐われるの
は当然である。この厳しさがあってこそ、は
じめて愛や慈悲を論じる余地もでてくる。

 人が人を裁く事など出来ぬというのは偽善
者のたわごとに過ぎない。

 人が人を裁かなくてどうするというのか。
 無論人間は過ちを犯す存在である。
 そんなことは百も二百も承知の上で、断固
として人が人を裁くのである。
 又、人間が赦すことのできる範囲とは一体
どこまでで、一体誰がそんな線をひけるのか
と問われたら、「もちろん私がだ」と誰でも
が答えられるようでなくてはいけない。

 神に代わって裁くのではない。
 あくまでも人間として裁くのである。
 神と違って、ちっぽけな人間にはとうてい
赦し難い隣人はたくさんいる。
 たとえ神の教えに背くことになろうとも、
人間の責任において断罪し、その上で神の裁
きに我が身をゆだねれば良い。

 人間は間違えるから神の裁きに任せるとい
うのではなく、人間が最善を尽くし、なをそ
れでも間違えてしまった場合、そこから先を
神の手にゆだねるのである。

 おそらく、世の中には罪を逃れてほくそ笑
む者が数えきれないほどいるだろう。不幸に
して冤罪に恨みを呑んで死んでいく者も後を
絶たないだろう。
 しかし、そこは神様がご存じで悪いように
はしないはずだと思えばそれで良い。
 誰でも一度はそんなふうに子供の頃、考え
てみたことがあるはずだ。


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