店主雑感
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心がけずとも柔軟な発想は、できる人には できるし、できない者にはどう心がけたって 金輪際できはしない。
また、柔軟な発想などは、できる人だけに させておけば良いのであって、大多数の人々 は既存の価値観と常識に安んじていればいい のである。
同様に本物の才能であれば放っておいても 勝手に溢れ出てしまうものであって、見い出 してやらねば埋もれてしまう様な才能なら、 埋もれるままにしておく方がどれほど人類に とって幸福であるかわからない。
あらゆる人間すべてが人類に進歩をもたら したり、芸術的刺激や興奮を与えたりする特 別な才能を秘めており、各人それを掘り起こ し、引き出すのが人生本来のあり方である、 と考えるのは愚かを通りこして狂気の沙汰で ある。
教育者の使命は子供達の才能を発掘し、育 てることではない。 子供達が既存の価値観と常識をきちんと身 につけて、健全な社会生活をおくれるように することにある。 そして、それが既成概念を打ち破る発想な り、発見の妨げになる、ということは断じて ない。
人類文明の進歩発展、ということなら百年 に数人の天才が現れるだけでも多すぎるぐら いのもので、あとの数十億人はアインシュタ インやモーツァルトである必要はない。
アインシュタインやモーツァルトにしたっ て、どうしても必要というわけではない。
文明の進歩などは数百年遅れたところでい っこうに構わない。
蒸気機関発明以前の人間が現代人よりもみ じめな人生を送っていたわけではない。
モーツァルトの音楽はたしかに人類の宝物 であり、もしなかったとすると、いかにも惜 しい。 しかし、惜しいことは惜しいが必要不可欠 ではない。
幸運にも今日、モーツァルトの作品が残っ ていることに、感謝するだけで良い。
人間が生きていく上で本当に必要なのは、 天才科学者でも、天才音楽家でもなく、ごく あたりまえの良識を備えた安心できる隣人で ある。
非凡ではあるが、小さな子供に性的悪戯を するような気味の悪い人間が、隣人にごろご ろしている社会は、どう見ても健全であるは ずがない。
ところが始末の悪いことに、不健全である ことが、現代人のうりでもあるから情けない。
「様々なストレスにさらされることの多い 現代人には、癒しが必要…」といったふうな キャッチコピーは、いたるところに氾濫し、 現代人の精神生活が危機に瀕しているという ことは、もはや全世界的諒解事項と言っても 良い。
我が子をタレント養成スクールへ通わせ、 アイドルに仕立てようと躍起になる、脳天気 な母親ですら、笑止千万なことに、現代人は ムンクの「叫び」の様な不安に晒されている、 と信じている。
クラスメートに向かって、簡単に銃を発射 するのも、近所に住む小学生の首をノコギリ でひいて、口を切り裂き、そこへメッセージ を書いた紙を詰め込んだりするのも、すべて は現代社会が犯行者の心を抑圧した結果であ る、と言う。
はたして彼等の心に負った傷がどれほどの ものかは知らない。 しかし、かつて身分制度が絶対であった時 代、少年が地面に額を擦りつけさせられたり、 少女が親兄弟の都合で好きでもない男の妻妾 にさせられたりしたのと比べ、現代の頭の悪 い子供達が、猟奇殺人を犯し、売春行為に走 る、どんな妥当な理由があるというのか。
説明できる人があれば、是非教えて欲しい ものだ。
ストレスにさらされるのは現代人の専売特 許ではない。 過去よりも現代が不健全である納得のゆく 理由など、じつは一つもないのである。
すべては、我が子すら満足に躾けることが できない現代人の、いいわけがましい自己憐 憫にすぎない。
コンコルドが大西洋を3時間45分で飛ぶ 事と、6才の子供が気に食わない女の子を撃 ち殺してしまう事とは、何の関連もない。
少年犯罪が年々激化し、低年齢化するのも、 怪し気な新興宗教がはびこるのも、決して技 術文明が進むことによって、人間の心に潤い がなくなったとか、未来への不安が増幅され たとか、そんな事が原因ではない。
ただ単にこの半世紀の間、猫も杓子も自ら を非凡な人間に見せようと腐心するあまり、 不快な隣人が増えることに鈍感でありすぎた 結果である。
不快な隣人を嫌悪し、軽蔑することは健全 な社会を維持するためには、むしろ必要なこ とである。
法整備は本来、起きてしまった不幸な事件 に対処するものであって、事件を未然に防ぐ 効果を期待することはできない。
そこで必要になるのは、不快な人物を犯罪 の「機会」と「犠牲者」になるべく到達させ ない努力である。
難しいことは少しもない。
不快な隣人に対しては嫌悪感と不信感を抱 き、常に警戒を怠らない様にするだけで充分 なのである。 嫌悪感と不信感を抱かれ、常に警戒されて いる人間は、無力な存在であり、その上更に、 無用の攻撃を加える必要はまったくない。
現代人は他人に干渉することを極度に嫌う が、隣人に対する無関心は、不快な人間が機 会と犠牲者に到達するのを容易にしてしまう。
不正な薬事行政に関わって、HIVという 名の死を無差別に大勢の人々にばらまいても、 一向に恥じる様子のない不快な連中、彼等と て、最初っから厚顔無恥な大人だったわけで はない。
彼等だって幼稚園の砂場では、ただの可愛 げのない幼児に過ぎなかったはずである。
可愛げのない幼児も、凶悪犯罪者も、同じ 不快な人間であることに変りはない。 大人にくらべ、他者に対する影響力が小さ い、というだけである。
本質的には、くずで最低の人間であっても、 戦場では勇敢で、信頼できる戦友たりうる。 何故なら、戦場では自己の生存を、周りの 戦友達と、強く相互に依存しあっているから である。
社会規範など、屁とも思わぬようなチンピ ラが仲間内では妙に、上下関係に敏感で礼儀 正しかったりするのも、やはり同じメカニズ ムによる。
背信行為というのは、そうした方が確実に 有利な場合にのみ、意味があるのである。
健全な社会とは、自分の生活が他者との相 互依存によって成り立っている、ということ を実感できる社会である。
つまり、戦場ほど極端ではないにせよ、周 囲の人間に不信感や嫌悪感を持たれることが 自分にとって、非常に不利になるような社会 である。
幼稚園の砂場は、みんなと仲良くする場所 ではなく、どんなふうに振る舞うとみんなに 嫌われるかを学ぶ場所でなくてはならない。
そして、みんなに嫌われるとどんなに不利 かを学ぶ場所でなくてはならない。
しかし今の子供達は、砂場での好き嫌いと は関係なく、危機に際して命は誰でも公平に 助けてもらう権利がある、と信じ込んでいる。
現在の教育は、やたらに命の尊さを強調す るあまり、反って、命というものを抽象的に してしまっている。
子供にとって、最も分かりやすい具体的な 命は、自分の命にほかならない。
自分の命も状況次第では保障されない、と いうことを知らなければ、本当に命の尊さが 分るはずはない。
現代の子供達はたとえ人を殺しても、自分 の命は法律が守ってくれると確信できるので ある。
こんなばかな話はない。
逆説でも、何でもなく、命の重さは具体的 に量れる、ということを示す必要がある。
嫌いな人間より好きな人の命が優先する。
見ず知らずの他人より家族の命の方が普通 は重い。
現時点での人質の命より将来の犠牲者を増 やさない事の方が大切なのである。
遭難者の命より二次遭難者を出さない事の 方が大事だから天候が回復するまで救助活動 を控えるのである。
ましてや、簡単にキレて人を殺すような子 供の命に、重さなどありはしない。
殺される側にとっては、加害者が大人だろ うと、子供だろうと、おんなじことである。
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