□■ あたしのお教室 ■□
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2003年06月29日(日) |
一つの命が終わり、そして。。。 |
はい、こんにちは。
土曜日の朝、実家から電話。 97歳になるあたしの大叔母が亡くなった。 最期を看取ったのは、うちの母であった。
割と若い時期に母親を亡くしたうちの母は、その叔母を実の母のように慕っていた。 門司の駅前は大里と呼ばれる町で、京都の町のように碁盤の目のように町が並んでいる。 大叔母の住まいはそこである。 以前はすぐ近くに住んでいたので、あたしも良く大叔母さんのところには遊びに行かせてもらったものだ。
若い時は、絣の着物に割烹着で、いつも座っているということがなかった。 家は、生け花があちこちに飾られ、部屋の中にはゴミひとつ、ホコリひとつなかった。 とても几帳面な人なんだなぁと、ちょっと緊張して遊びに行ったことを思い出した。
長く生きていると、色んな辛い目に遭うこともあるわけで、大叔母は息子を一人小さい時に亡くした。 家の周りに大きな木があって、雷がそこへ落ちて、部屋に寝ていた息子が雷に感電して亡くなってしまった。 連れ合いの大叔父は、もう20年も前に、自宅のお風呂で亡くなった。 熱すぎるお湯が原因だったらしい。
娘さんの一人は母と同年代で(母の従姉妹)、3人の男の子(私と同年代)を残して、数年前ガンで亡くなった。 すでに動けなくなっていた大叔母は母にその娘さんの介護を頼んだ。 その娘さんのダンナさんは、裁判所にお勤めで単身赴任されていたから。 当時、うちは父も健在で、母は、その娘さんの壮絶な最期を看取ったわけだ。
もう一人の娘は、つい最近、火事にあって、家が全焼してしまった。
「わたしは、あとどれだけ、生きんといけんのやろうね。 もうそろそろ楽になりたいよ。みさちゃん。(母)」といつも言っていたらしい。
100歳近くなろうというのに、だらしない恰好はしたことがなく 相変わらず絣の着物をしゃんと着て、髪は週に1度、出張美容師の人に結ってもらうというお洒落な人だった。
たまに帰省した時に会いにいくと、コタツにちょこんと座っていて仏様のような微笑を浮かべて 「小春ちゃん、よう来てくれたね。丹波のお父さんお母さんはお変わりないかい?」と気遣いを見せてくれた。
気丈な人であったが、危なくなるといつも母が呼ばれていた。 一族の中で一番若いのが母だということもあるが、どうも、母を一番頼っていたらしい。 母はいつも大叔母のことが気になっていて、旅行にいくにも、大叔母の調子の良いときしか出かけなかった。
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「今日の朝ね、眠るように亡くなったのよ。 どうしてだろうね。その時家には私しかいなかったよの。 手を握っていたらね、だんだん力がなくなっていってね、 呼びかけてみたら、ふっと目を開けて、ちょっと笑って それからまた目を閉じて、息が切れたのよ。」
「そうやったの。。。おばちゃんも本望やったやろ。 かーさんのこと、一番のお気に入りやったもんね。」
「そうやろうか。。」
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今頃実家はばたばたと忙しくしてるのだろうな。 少し落ち着いてきたら、母はまた寂しくなるんだろうな。
でも、一つだけうれしいこと。 ガンで亡くなった大叔母の娘さんの連れ合いであるおじさまが 自分の奥様を、最期まで励まし続けたうちの母のことをとても 大事に思ってくれて、どうやら、残りの人生を母と過ごしたいと 言ってくださったらしい。 母は恥ずかしそうにそれをあたしに打ち明けた。
「大事な人を亡くした者同士、お互いの痛みを癒しあっていけたらいいね。 あたしは大賛成。」と言うと、母は「ほんとに?よかった。」とうれしそうだった。
70を過ぎても人に愛される母。 うらやましくもあったな。(笑)
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