高知弁教えて・・・ - 2007年01月16日(火) 青い空と、気持ちの良い芝生の上で私は、大きくなったラブラドールのトミーと、座りながらいつまでも、海を眺めている。 入社したのは憧れのアパレル販売業。最初こそ楽しかったが、あっという間に 店長になった。数字に追われる毎日、夜遅い帰宅時間。友達も少なくなった。 気晴らしに始めた趣味のチャット。そこで彼と知り合った。私の住まいは東京、彼の 住まいは奈良だった。フリーアドレスを交換して、色々なメールをした。時間が合えば チャットもした。だんだん、声が聴きたくなり、お互いの携帯の番号、携帯アドレスを 交換し、昼休みに、くじけそうになった時に、メールをしたり、時間の合うときに電話をして、随分、励まされた。 大阪店の応援要望があり、高知店の店長の同期の敦子と応援出張する事になり、食事の席に彼を招き初めて会った。全く違和感は感じなかった。三人で歳も近い事もあり、ウマも合い、出張中、毎晩、大阪で遊んだ。 最終日の大阪。彼が見送りに来た。滑り込む新幹線。乗り込むときにちゃんと付き合う事を決めた。私は当時二四歳だった。順調に交際は進んだ。五年付き合ったところで、結婚をお互い意識した。天保山の観覧車の中で、クリスマスにプロポーズされた。嬉しかった。すぐに頷いた。ただ彼の家は旧家の長男で跡取り息子だった。私の家は、両親は離婚していて、彼の両親からは猛反対された。毎日の様に彼の親からの電話で別れてくれとも言われた。一緒に大阪で働いた敦子に、何度も相談したが、毎日泣いて暮らした。誰を信じていいのか解らず彼に何度も励まされたが、結局、意志が崩れ別れる事を決意した。 あまりのショックで会社も辞め、鬱になった。電話にも出ず、何も食べられず、時間だけが過ぎていった。一年後に東京店に応援にきた、敦子が、部屋に泊まりにきて私のあまりにも悲壮な様子に驚いていた。 彼は親の決めた相手と婚約したそうだった。ただ、敦子の所に着ていたメールには、私の事しか書いてなかった。全て見せてくれた。 あんな別れ方になってしもうてつらいねん。 あいつ元気にしとるんかな。今でも心配やし、好きなんやけど、もう嫌われとるよな。そんな内容ばかりだった。 「なぁこれでいいのか?」敦子柔らかい声でそう聞いてきた。敦子が高知に帰ってからずっと考えた末に出した答えは、たった一言メールで 「会いたい」と彼に送った。 すぐに折り返し電話がかかってきた。 「名古屋で待ってろ俺かて会いたいねん。婚約は破棄するから、いつものとこで待っててな。」 その声が最期だった。名神高速 事故が多くて怖いと付き合っていた頃、漏らしていた。いつまで待っても彼は迎えに来てくれなかった。 居眠り運転の大型トラックの事故に巻き込まれ、彼は息を引き取った。 霊安室で見せて貰った携帯には、お揃いで買ったストラップが揺れていた。 敦子だけが葬儀に参列した。その間、彼と一緒に過ごした京都を一人で歩いた。 それまでショック過ぎて涙すら出なかったが、一人で哲学の道を歩いている時に溢れて 止まらなかった。いつまでもそこでうずくまって泣いていた。後追いを心配してか敦子が 無理矢理、高知に私を連れ帰った。お腹の大きなラブラドールのラッキーと住んでいた。 何度もマンションから飛び降りようと思った。その度に、よたよたと重い体を苦しそうにしながらスカートの裾を引っ張られ哀しげな瞳で見上げられた。 「ごめんね。ごめんね。」泣きながら抱きしめるとペロリと涙をぬぐってくれた。 そんな日々を数ヶ月過ごした。ラッキーは出産し、そのまま空へ旅立ってしまった。 どうしてどうしてと泣きじゃくる私に敦子は言った。 「私も哀しいけどな、ラッキーの命を新しい六つの命に吹き込んだからこんな満足な顔してるんだよ。アンタの彼も満足そうな顔しとったで。あんたに命を吹き込んだからやろ。だから泣かないで前を、向いて子犬の世話を私はせなあかんと思うのよ。」 その日の夜に夢を見た。 ラッキーと笑顔で走っていく彼。 「まだまだ、オマエに追いつかれたないわ。ど阿呆がぁ 少しは社会に貢献せぇや。」 私は子犬を育てながら、今、介護士の資格を取ろうと高知で勉強している。 くじけそうになると、必ず彼とラッキーが夢に現れる。 まるであの頃、昼休みに携帯でメールしていたように・・・・。 -
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