Spilt Pieces
2003年04月28日(月)  友
理屈で分かっていることというのは多い。
だが、実際にとるべき行動で迷うことも多い。
何が真実か見極める力を自ら育まない限り、きっと私は何もできない。
外にある価値基準にどんな由来を求めたところで、判断を下すのは自分自身だ。
そんな当たり前のことを、時折完全に脳裏から忘却せしめたかのような生活を繰り返しているならば、ふと我を取り戻したときに途方もない後悔が襲うだろう。
きっかけは、いつでもほんの些細なこと。
そしてその些細な、しかし自分の中からだけでは手に入れられないような契機を与えてくれるのは大抵周りにいる人々の説得ともつかずに無言で前へ進む姿。
私は、友人に恵まれている。


偽りが嫌いな私は、相手に欺瞞を感じた時点で離れていく。
本人の自己評価など関係ない。
ただ、その目に真実を感じられるかという、それだけのこと。
相手が自身をどれだけ偽りと称しても、自分の直感が違うといえば私は信じる。
同様に、相手が自身をどれだけ真実であると称しても、自分の直感が違うといえば私は信じない。
その直感がどれだけ合っているかは分からない。
なぜなら、私は「似ている」ということも嫌がるし、それと間違えることも少なくないから。
結局、私はいいかげんな人間だということだろうが。


「真っ直ぐな人が好き」だと言った私に、かつて友人がこう言った。
「私は、真っ直ぐな人といると自分の歪みを実感せざるをえなくなるから苦手だ」と。
しかし、私は自らを歪みと言った彼女そのものが真っ直ぐな人だと思っていた。
真っ直ぐすぎて、ゆえに不器用で、歪んでいると見せかけられてしまう人。
そういう人もすごく好きで、ひょっとしたらそれは諸刃の剣なのかもしれないとは思うけれど。


理屈から脱して動くためには、当然自分の意志が必要となり、そこに逐一言い訳を求めていては何も前へは進んでいけない。
後悔を伴う、言い訳に依存しかけた生活は、しかしそれでも私を襲うことがあり、ゆえにそこから脱するための起爆剤となるかのような刺激を求めることもしばしばだ。
言い訳など関係なく、ただ自分の信じた道を行こうとする友人を必要とし、また大切だと思う理由は、自分勝手ながらこういう私自身の悪癖に求めることができるかもしれない。
ここでも結局「理由」なのだろう。
しかし、それは「言い訳」とは程遠い。
心地よい。


最後に。
この文章そのものがかなりの矛盾を含んでいる。
理屈ばかりで、どこに「動」の部分があるのか見えない。
単なる照れ隠しかと言われればそれまでのこと。
とりとめもない日記。
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