2006年03月11日(土)  指切り 三。
 
そんな彼との6ヶ月。彼は今日退院した。
 
退院のことを伝えても理解しているとは思っていなかった。幻聴と会話し、命令に従い、行動する。妄想を抱き、辻褄の合わないことを言い、納得しないと怒り出す。退院の意味がわかっているのだろうか。家に戻っても、もしくは他の病院に転院するとしても、彼はいつまでもこのままなのだろう。だから僕はいつもの調子で彼のペースに合わせて会話をしていた。
 
「長生き安心大丈夫!」
 
彼は時々小指を指し出して、指切りげんまんをしながら、こう言った。長生き安心大丈夫。彼と僕は、いつも指切りをしながら笑っていた。退院の時間は迫っていた。僕は自分から小指を指し出し、指切りをしようとした。たぶんこれが最後の指切りになる。長生き安心大丈夫。僕がいなくても、どこかに君を理解してくれる人がいる。
 
願いを込めて指し出した小指を、彼は悲しい顔で躊躇した。
 
「今まで一生懸命みてくれてほんとありがとね」
 
意志疎通ができない。それは僕の勘違いだったのかもしれない。言葉なんて意味がない。それは僕の思い込みだったのかもしれない。患者さんの前で涙することはあってはならないことだと思っていた。しかし僕は溢れ出る涙を止めることができなかった。それはあまりにも予想外で、悲しいほど不意打ちだった。そしてそれは言葉は通じなくても気持ちは共感することができると確信できた瞬間だった。
 
「主任さんて涙もろいのね」
 
看護婦さんたちは理由も聞かずに僕を笑う。僕はこの仕事に誇りを持っている。長生き安心大丈夫。彼と笑いながら指切りした日々を、僕はずっと忘れない。
 

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