2004年08月20日(金)  おじさんとあるいた。
 
「何の用だい」
 
この病院にこんな場所があったのかと、呆然と立ち尽くしている僕に「おじさん」は古い腕時計から目を離さぬまま再び同じ質問をした。
 
「あ、いや、えっと、病棟のトイレの水漏れが……」
「またかい」
「ええ」
「わかった。そのうち行くよ。しかし看護師さん、ここにはどうやって来た」
「ヘルパーさんに教えてもらいました」
「この病院に勤めてどのくらいになる」
「えっと、まだ1年経ってません」
「そうか、よし。時間あるかい?」
「ええ……多少なら」
「ちょっとついてきなさい」
 
僕は緩慢な動作で歩きだしたおじさんの後をついていった。日頃、仕事で歩いているような階段や廊下ではなく、おじさんの歩く道は裏口だったり非常階段だったりした。ここでおじさんと別れたら、病棟はおろか、この病院からも出ることは不可能だろう。しばらく歩くと、僕の腰の高さほどの小さな木の扉に突き当たり、おじさんはあらゆる形をした鍵束の中から小さな錆びた鍵を取り出し、その木の扉を開けた。
 
「ここ、来たことあるかい」
「いえ、病院のどのあたりに位置するかさえわかりません」
「そうだろうな」
 
小さな空が広がっていた。物干し竿にはくたびれたTシャツが3枚干されていた。いくつものガスボンベが地面に横たわり、小さな茂みの中には、束になった古新聞が捨てられていた。現在は使われていないと思われる古井戸があり、ブロック塀に沿って置いてある朽ち果てた病院用のベッドには、2本の脚を失った事務机が積まれていた。
 
「ここは、俺の場所なんだ」
「おじさんの?」
「そう、俺の場所」
 
その小さな庭は、病院の中とは明らかに異質な何かがあった。それは懐かしいような恐ろしいような。小さな麦わら帽子をかぶり、薄汚れたYシャツを着たおじさんは、「研究室」から出るような緩慢な動作で、古井戸に片足を踏み入れ、腕時計を分解する時のように僕に顔を向けないまま呟いた。
 
「自分の場所っていうのは、願わくば、誰にも知られない方がいい。それは自分のためでもあるし、相手のためでもあるんだ」
 
おじさんは、古井戸に入っていった。その井戸は底が存在するのかしないのか、おじさんが着地する音はいつまで経っても聞こえなかった。自分の場所。僕はその井戸を覗くことができず、いつまでもそこに立ち尽くしていた。
 

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