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| 2004年01月17日(土) 同化。 |
| 「髪を洗って」 「誰の?」 「誰ってあなたライオンのたてがみでも洗うつもり?」 女はそう言って僕の手を引いた。僕はこれから用があるということさえ口に出せなかった。彼女は僕の手を引いて人混みを掻き分けるように歩き、やがて人混みを掻き分けなくても歩けるような静かな道に入った。すれ違う人々は皆二人で歩いていて、コートの襟を立てたり、ストッキングの伝染を気にしながら歩いている。 車一台通れそうもない細い道のホテル街。都会の隅にひっそりと佇む欲望の道。彼女はもう手を引くことはなく、どちらかというと僕のあとを歩くような格好になっている。依然、その右手は僕の左手を握ってはいるけど。 「髪を、洗うんだよね」 僕は馬鹿らしいと思いながらももう一度女に訊ねてみた。「髪を洗う」という事自体、意味がよくわからなかったけど、何を訊ねてみても女に馬鹿にされそうなので、僕は要点だけを彼女に訊ねた。誰の髪を洗うのか。僕が僕の髪を洗えばいいのか、それとも僕が女の髪を洗うのか。僕はそれさえもわからなかった。女は僕の手を振り払った。 「どうしてあなたはいつも同じことばかり訊ねるの」 女は軽蔑の宿った視線で僕を睨み、僕の前を歩き始めた。擦れ違うカップルは興味深そうに僕たちの行動を横目で覗いている。僕は決して女を追い掛けているのではないということを周囲のカップルに見せしめる為に、ゆっくりと平然とした足取りで歩かなければいけなかった。 ホテルの部屋は、ただ欲望を処理するためにだけあるような簡素な作りだった。スプリングが軋むベッドと、ガラス張りの浴室。彼女は小さな鏡の前に座り、束ねていた髪の毛を解いた。僕は煙草が吸いたかったけど、女は煙を忌み嫌っているので小さな冷蔵庫を開けてコーラを一口飲んだ。残りをプラスチックのコップに入れて女に渡した。 女はテーブルの僕が注いだコーラに一瞥しただけで、最初からそこに何もなかったように僕に話し掛けてきた。 「あなた、人の髪の毛洗ったことある?」 僕は、仕事上であれば、洗ったことがあると答えた。僕は看護師をしていて老人の入浴介助をしたり、入浴できない患者をベッド上で洗髪したことがあった。 「そんなこと聞いてないわよ。あなたは『女』の髪の毛を洗ったことがあるの?」 女は漆黒の髪の毛を小さな櫛で梳きながら訊ねた。女が言っていることはおぼろげながら理解できた。女性の患者の髪の毛ではなく「女」の髪の毛だということを。僕はないと答えた。今までいろんな女性と付き合ってきたけれど、考えてみれば、じゃれ合いながら彼女の身体を洗ったことはあったかもしれないけど、髪の毛を洗ったことなんて1度もなかった。彼女は僕の言葉を待たずに言った。 「私があなたの初めての人になるの」 僕はこの女と一緒に寝たことがなかった。女はセックスを嫌っていたようだし、僕もそれに似たような思いを持っていた。だから同じベッドに入っても別段欲情するわけでもなかったし、何よりも女はいつも僕に背を向けて寝るので僕は女の寝顔すら見たことがなかった。女はセックスの変わりに後ろから抱き締めて寝ることを強要した。だから僕は右腕は彼女の首の下にまわし、左腕は女の腋の下を通り、ちょうど女の胸の辺りで自分の両手を繋ぎ合わせるような格好で眠らなければならなかった。だから僕は女の乳房を見たことはなかったが、その感触は誰よりも知っているつもりだ。 女は狭い浴室へ進み、流れるように服を脱いだ。細い背中は女の長い髪で隠された。女は何も言わずに暗い浴室の中へ消えていった。僕は躊躇した。プラスチックのコップに入ったコーラを飲み干し、次の行動を考えた。女の髪を洗う。行動の選択肢はそれしか残っていなかった。僕はいつの間にか女の一部になっていた。 暗い浴室で裸の女は僕に背を向けて座っていた。なだらかな腰の線をたどると、形の良い臀部が見えた。僕が服を脱いでいる間、女はずっと黙っていた。僕は服を脱ぐことが適切な行動なのかさえ理解できなくなっていた。服を脱いでいいか女に訊ねようと思ったけど、また怒鳴られてしまいそうで、僕は服を脱ぐときの布と布が擦れる音が女に聞き取られないよう、そっと服を脱いだ。 そっと女の髪の毛に触れた。指を通すと、それは繊細な糸のように、僕の手の中を滑った。今にも消えてしまいそうな柔らかな糸。女の裸にも興味がなかったわけではないが、僕はその髪の毛に心奪われてしまった。 「さぁ、洗ってみて」 女は顔を動かすことなく、石像のようにじっとしている。いつも一緒に寝るときと同じように僕は女の背中を強く抱きしめた。僕の顔が女の髪の毛に埋もれた。僕はいつの間にか女の一部になっていた。 |
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