2003年07月19日(土)  再会。
詳しい話を書くことが面倒臭くて、仕事に関して書くことをついつい敬遠していたけれど、実は僕はもう働いている池袋のビルの中で営業マンとして。昔から営業という仕事を一度経験してみたくて、通信大学の授業もそんな毎日あるわけではないし、失業保険の支給なんて待っていたら餓死してしまうので、スーツをまとい、とあるIT関連の企業の面接を受けたら4日後に1次試験合格の通知が届いて翌日の午前中に2次試験を受けたらその日の午後から働くこととなった。
 
毎朝9時から夜の9時まで、実に12時間僕は働いている。バナナ工場の苦労が身体に染み込んでいる僕は今のところ怖いものは何もない。
 
午後9時。池袋東口にそびえ立つビルの9階に僕は立っていた。僕が働く営業課は8階なのだが、わざわざ9階の商品管理課まで行ってタイムカードを押さなければならない。「お疲れ様でしたー」商品管理課の人たちは今夜も残業をするのだろう。整然と並んだパソコンにまばらに人が座っている。タイムカードを押して管理課を出てエレベーターを待つ。
 
「あっ」
 
管理課から出てきた女性が僕を見て小さな声を挙げる。驚いた表情をして左手を口に当てている。見たことのない女性だ。尤も、このビルには同じような格好をした同じような年代の女性が多すぎる。今朝声を交わした女性の顔さえも思い出せない。「あっ、どうも。お疲れ様でした」僕は当り障りのない挨拶を交わす。ビルの9階。いつも僕はこのエレベーターの中で(いったい僕は何がしたいんだろう)と考える。何の為に安定した職を捨て、ここまでやってきたのかわからなくなる。
 
「お菓子工場……」
 
エレベーターの中で彼女は僕に向かってそう呟く。仕事が終わった直後にお菓子工場と言われても全く意味がわからないので、中途半端な笑みを浮かべてエレベーターの階表示を見上げる。彼女はなおも僕に何か言いたそうな顔をしている。
 
「バナナの……」
 
僕はハッとして彼女の方へ振り向く。バナナ! 僕のここ数ヶ月のキーワードはバナナである。隣の部屋の女性はよく僕の部屋になぜかバナナを届け、バイトで工場へ出ると気を失うまでベルトコンベアで運ばれてくるスポンジケーキの上にバナナを乗せ、新しい職場のエレベーターで指をさされてバナナと言われる。
 
「えっ、あの時の?」
「やっぱりー!」
 
彼女は狭いエレベーターの中で歓喜の声を挙げる。彼女もあのバナナ工場にいたのだ。しかも僕の左隣に。夜11時から朝の8時までスポンジケーキに添えられたバナナの上に生クリームを塗っていたのだ。そして過酷な労働に心身共に真っ白になり、真っ当な職業に就こうと思い、この会社の面接を受けたのだ。僕と全く同じように。
 
「えっ、えっ、どこにいるんですか?」
「いや、えっと、下の営業課に」
 
珍しい再会だと思う。これだけ人で溢れかえっている東京のとあるビルの小さなエレベーターでバナナを乗せていた男と生クリームを塗っていた女性が作業服ではない小奇麗な洋服を着て再会する。「死にそう」「あと2時間よ」「駄目だ死ぬよ僕は」「あと1時間よ」と徹底した衛生管理の中、厳重なマスクと帽子を着用しながら会話を交わしていた女性と再び職場を共にして再会したのだ。
 
「あの工場に比べると今の仕事って天国だよね」
「そうよねー。なんかあの工場で目が覚めたような気がしたもん」
「世の中にでしょ」
「うーん上手く言えないけど、そんなやつに」
 
工場の話で盛り上がりながら池袋駅まで歩く。人生の意味とか、よくわからなくなっている。何の為に僕は駅に向かい、これから何処に行こうとしているのか。何の為に満員電車に揺られて、これから何処に行けばいいのか。
 
「私ね、明日から2連休なの」
「僕なんて3連休だよ」
 
どこか似ている2人は駅の改札で静かに手を振って別れた。

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