2003年06月06日(金)  生きてます今のところ。
「アイスクリームね、1個しか持ってないの。ゴメンね」
 
隣の部屋の女性は風呂上りの髪を乾かさないまま僕の部屋にやってきた。僕はヘッドホンをつけて映画を見ていて、彼女がドアを開けて部屋に入ってきたとき何を言ったのかわからなかった。鹿児島に住んでいたときから自分の部屋に鍵を閉める習慣がなかなか身に付かない。彼女は自由に僕の部屋にやってきてCDを聞いたりパソコンを触ったりして自由に帰っていく。
 
「は? ゴメン、聞こえなかった」
「えとね、アイスクリーム、1個しか持ってないの。へへ」
 
一瞬にして彼女の笑顔と共にカーテンを閉めきった薄暗いワンルームにシャンプーの匂いが広がる。僕は彼女に見えないように強く目を閉じて耐えがたい衝動の嵐が通り過ぎるのを待つ。
 
部屋の真ん中に鎮座する赤い一人掛けソファーは彼女の特等席になっていて、僕は彼女が来るといつもそのソファーを譲りベッドの上に腰掛ける。若しくは赤いソファーには足掛け用の赤いチェアがついているんだけど、僕はその小さな足掛けチェアに座る。そして彼女はCDを取り出し歌詞カードなどを読み始め、僕はヘッドホンをつけて映画の続きを見る。映画が終わってから心理学の知覚と感覚の違いについて話し合う。
 
シャンプーの匂いが、どうもいけない。自分の部屋で風呂上りの女性がソファーに座っている。彼女は中国から2年前に日本に来て、日本語は理解できるが回りくどい表現、例えば「シャンプーのとてもいい匂いがする」この言葉のニュアンスを掴むことができない。シャンプーの香りが良い。と彼女は認識する。その言葉の裏を読むことができない。迂遠な表現の中だけで生きてきた僕は物事を単刀直入に表現するということが苦手で、ほんとどうも。ほんとどうにもならない。
 
しかしここは同じマンションの隣人の仲。越えてはいけない一線があると。どういう一線なのかわからないけれど、取り敢えず越えない。地に踏ん張って、ジャンプしない。ただでさえ鹿児島で面倒臭いことがいっぱい起きて逃げ出すように埼玉まで引越してきたんだから、もう、ほんと、真っ当に生きたい。生きてます今のところ。

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