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| 2003年05月11日(日) 苺。 |
| 1パック498円。近所のスーパーに少し季節外れの苺が並んでいた。僕はそれを手に取り、また棚に戻して、しばらく思案に耽ってからもう一度、苺を手に取った。5月の苺。それは僕にとって特別な思いを抱かせるものだった。 ―――― 「ねぇ、イチゴ買って来て」 「え、何?」 「イチゴ買って来て」 「今?」 「うん。今」 彼女が入院して、もう4週間経っていた。 4週間前のいつもの休日。2人で旅行の計画を立てながら旅行雑誌を読んでいると、彼女が突然「イチゴ食べたい」と言い出した。 「イチゴ食べたい」 「え、何?」 「イチゴ食べたいの」 「今?」 「うん。今」 たぶんあの時も僕は今日と同じような素っ頓狂な返事をしたかもしれない。彼女は付き合った当時から少し物事に対して衝動的なところがあって、駅の改札の前で突然キスをしたり、擦れ違うカップルへのあてつけのように突然腕を強く組んだり、旅行雑誌を読んでいる途中に突然苺が食べたいと言い出したりした。 「ねぇ、買ってきてよ」 「嫌だよ。雨降ってるし。それに今イチゴって高いんだよ」 「お金払うから」 「嫌だよ。自分で行けよ」 「いいわよ。自分で行くわよ。帰ってくる保障はないけどね」 「わかったよ行って来るよ。お金よこせよ」 と僕はいつものように彼女の策略にはまり、スーパーに行くことになった。1パック498円の苺と牛乳を買い物カゴに入れ、バラの模様がしつこいくらいに密集した彼女の小さな傘を広げて早足でアパートに戻った。アパートのドアを開けると、彼女は小さなソファーからずれ落ちて、白目を剥いて全身が小刻みに痙攣していた。大声で名前を呼んでも返事はなく、口からはおびただしい量のよだれが流れていた。僕は生まれて初めて119番をダイヤルし、彼女の全身が痙攣していて意識がないと震える声で説明し、電話を切ったあと、助けてくれ! と大声で叫んだ。 そして4週間後、僕はまた彼女の衝動的な欲望によって、スーパーへ苺を買いに病院近くのスーパーに来ていた。あれから彼女はすっかり元気になったけど、未だに病名がわからず、様々な検査の為に入院が長引いている。1パック498円。あれから4週間経ったけど、苺の値段はやはり変わらないままだ。僕は小さく溜息をついて苺を買い物カゴに入れる。 「買ってきたよ」 「ありがとう! 好き!」 「軽々しくそういう言葉を使うもんじゃないよ」 「イチゴ好き!」 「イチゴかよ」 「マー君も好き!」 「も、かよ」 彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら奪い取るように僕が持っていた買い物袋を取り、プレゼントを開けるような仕草で苺のパッケージを開けた。 「ねぇ、つまようじある?」 「つまようじ? たぶんないよ。あ、あるかも、コンビニの割り箸がそこにあったでしょ。あれに入ってるよ。ていうか何に使うの?」 「へへ」 「へへ、じゃないよ。何に使うの?」 「へへ。えとね、こうすんの」 と彼女は苺を取り出し、爪楊枝を使い、イチゴの表面の黒いゴマのようなものを一つ一つ取り除きだした。 「……。何してんの?」 「私このイチゴのぶつぶつ嫌いなの。美味しくないじゃん」 「味なんてないよ。たぶん」 「えとね、大昔はね、イチゴの表面はツルツルだったんだって。1年中実ってて、とっても甘くて、可愛くて、誰からも愛されてたの」 「ふぅん」 「でね、そういうのって駄目なんだって」 「どういうの?」 「完璧なもの。1年中実っててツルツルで甘くて可愛くて誰からも愛されるってやつ。駄目なんだって。神様が、許さなかったの」 「ありがちだね」 「でしょー。でね、ある日、神様がイチゴの木の上に、この黒いぶつぶつを蒔いたんだって。それからイチゴの表面にこのぶつぶつができて、それがショックで1年に1回しか実らなくなったの」 「どうりで1パック498円もするわけだ」 「だから、嫌いなの。このぶつぶつ。完璧なものへの嫉妬みたいなの感じちゃうの」 そう言って彼女は熱心に一つ一つのぶつぶつを取り除いて、「完璧」なイチゴを美味しそうに丁寧に頬張った。僕は「完璧」じゃないイチゴばかりを食べた。入院して4週間経った午後だった。 ―――― スーパーのレジに並びながら買い物カゴの苺を見つめる。黒いぶつぶつが施された真っ赤な果物。完璧すぎた為に神様の嫉妬を買った憐れな果実。 「でね、そういうのって駄目なんだって」 狭い病室の彼女が浮かべた寂しげな表情を思い出す。僕にとって大切な彼女。心だけで通じ合える彼女。何もかもがわかりあえる彼女。その笑顔も仕草も言葉も、全て、僕にとって「完璧」な彼女。 入院してちょうど2ヶ月経った朝。朝もやがかかる空から突然神様が黒いぶつぶつを蒔いた。僕にとって「完璧」な存在に神様が嫉妬した。我を失いパニックになって彼女の手を強く握ることしかできなかった僕に、彼女は息をひきとる間際に、「わがままばっかり言ってゴメンね」と、全身を細かく痙攣させながら、おびただしいよだれを流しながら、白目になりがちな瞳を精一杯僕に視線を合わせながら呟いた。 1パック498円。一人になったアパートに戻って、爪楊枝を心持ち強く刺して黒いぶつぶつを取り除きながら、僕は永遠に完璧にならない苺を一人で頬張った。 |
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