2003年02月24日(月)  クライシスコール。
「ほら、また切っちゃった」
 
診察を終えた彼女は処置室へ通される。処置の準備をしている僕に多数の傷跡が残る左腕を自慢気に見せる。何回も何十回もの行き場を失い本人さえも理解できない感情は、何本も何十本も細い左腕にカミソリで切り刻まれる。彼女はいつも笑っている。悲壮感なんて無縁の存在で 「だって、やめられないんだもん」 と非常に楽観的に捉えている。と思わせる。実際問題、リストカットが楽観の範疇で済まされる問題ではないということを僕も彼女も理解している。 「しょうがないなぁ」 僕は呆れた笑顔を浮かべて、彼女は困ったような笑顔を浮かべる。僕たちは、その笑顔の裏側で会話をしている。笑顔は、外界を偽るための、有効な手段であるということを僕たちは知っている。
 
「こんな綺麗な手をしてるのに、もったいないよ」
僕は傷口を丁寧に消毒しながら、彼女の左腕に話し掛ける。 「手首の人格化」 リストカット・シンドロームを学ぶとき、一度は耳にする言葉。切り刻まれた手首は自分自身を表していることもある。見捨てられて敗北者となった自分自身を罰するという自己処罰の行為。自らの血を外に出し、精神的な解放を得ようとする。
 
「早く治るといいなぁ」
僕はずっと左腕に話し掛けている。人格を持った左腕は、彼女の一部であり、彼女自身である。呆れるほど丁寧に傷口を消毒して、ガーゼを当て包帯を巻く。包帯で彼女自身が投影された人格を守る。二重にも三重にも巻いて、彼女を守る。清潔な包帯は、純粋な精神で、彼女を守る神聖な壁となる。さっきまで笑っていた彼女は今はもう黙って静かに目を閉じている。
 
「はい、終わり。次の診察の日までこの包帯は取らないこと」
「えー。無理だよー。だって次の診察って1週間後じゃん」
「じゃあ1週間風呂に入らなければいいんだよ」
「もっと無理だよー」
「大丈夫、体は汚くなっても傷は綺麗になるから」
「嘘ばっかー」
 
処置室は手首自傷症候群の女性がいるとは思えないほど笑顔と明るさに満ちている。リストカットを肯定する彼女と非難しない僕。僕はその悲痛な笑顔の裏側を覗いてクライシス・コール(危機に陥っている状況で本人が自覚しているかは別として助けを求めていること)に耳を澄ませる。彼女はきっとこれからもカーテンを閉めきった薄暗い一室で左腕を傷付け続けるだろう。それはわかりきった真実として、見えない力の、気持ちの、心の作用として、彼女を支配し続けるだろう。
 
そして彼女はこれからも診察を終えた後、僕の待つ処置室へ通される。
「ほら、また切っちゃった」
「しょうがないなぁ。風呂にも入ったんだね」
「当たり前じゃん」
「今日は簡単に取れないように包帯を巻きます」
「やめてよー」
 
楽観的で表面的な会話の裏で、表皮の下の動脈の内側で、僕たちは会話をする。傷痕を誇示することが、精神的な空虚さに対抗するための唯一の手段だということはわかっているけれど、それに立ち向かう力を与えるように、今日も呑気で丁寧な消毒を繰り返す。清潔な包帯で彼女を守る。
 
「ほら、これ、手首のところ、固いスジがあるでしょ。これが邪魔でね、この部分いつも切れないんだ」
「じゃあ左手全部スジだらけになっちゃえばいいよ」
「そうだねー」
 
彼女が、何事にも動じない、この左腕のスジのような大人になってくれたらいいと思う。

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