窓のそと(Diary by 久野那美)

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2005年09月25日(日) タイトルは内緒。

安直な結末でいいです!
つまんないとか文句言いません!
ひねりのないストーリーでかまいません!
救いようのない陳腐な作品であっても、ぜんぜん、オーケーです!

ですから。どうか。お願いします・・・!!

と。手足をばたばたしながらテレビドラマとかビデオ(映画)とか見ていることがあります。ばたばたしても仕方がないので、静かに目を閉じて祈ったりもします。騒ごうが静かにしようが、実は物語のこっち側でわたしひとりが何をどうしてもどうしようもないわけですが、どうにも落ち着かなくて。

見ているうちに、その、主人公が、登場人物が、その世界が、その場所が、自分にとって、なぜだかとってもとっても大切なものに思えてくることがあって。その大切さの前には、もう、ストーリーの面白さ、とか、作品の質とか、完成度、とか、そんなものは、もうほんとにどうでもよくなってしまって。

おねがいです。どんなに理不尽な展開になってもかまいません。どうかひどいことしないでください。

誰にだかわからないけど、とにかく祈ります。祈ったからどうなるものでもないのですが。

誰かの作った物語をこんな気持ちで見ているとき、きっとそれは私にとって心地よい、大切な世界なのだと思います。その大切なものが、<たかが物語の進行><たかが作品の完成度>という避けられない事態によって破壊されていくことにどうにも我慢ができなくなるのです。理不尽なのはわかってます。鑑賞する態度としてなにかが間違ってるような気もします。でも、どうにもこうにも我慢できなくなってしまう・・・。

安直なハッピーエンドの何が悪い?
陳腐な結末だと誰か困るのっ?!

と喧嘩腰にすらなってきて。しかも、誰と喧嘩すればいいのかわからないし。

「このひとたち(登場人物のひとたち)を不幸にしてまで必要な作品の質ってなんなんだ?そんなものがいったい何に有益なんだ?」と、真剣に悩んでしまう。もちろん。創ってる人は、そこで、ストーリーをこうひねりたくなる・・・かもしれない。そこで、さっきの伏線を生かして、展開をああしてこうしてそうしたい・・・・かもしれない。そこで、すべてを丸く治めてハッピーエンド、だなんて、ストーリーの構成上ありえない、と思うかもしれない。「ひねりのきいたストーリー」、「巧みな構成」、「意表をつく展開」「しゃれたストーリー」、「人間社会をリアルに描く」、「現実は綺麗ごとじゃすまない」・・・・ということが大切なのかもしれない。かもしれないけど、だから何なんだ。と思ってしまう私・・・。

観客の私にとって大事なのは描かれているその世界であって、そこで生きてるひとたちであって。そもそも、描いてるひとの事情なんか知らないし。
勝手なのかしら?いや、勝手なんだろう。どう考えても。
と思うので、思っても口に出さないように(できるだけ)していたのです。

ところが先日。
私の理不尽な祈りが完璧に聞き届けらるという奇跡的な経験をしてしまいました。例によって。私はばたばたしながら、祈りながら、<その>映画を見ていました。

おねがいです。どんなに理不尽な展開になってもかまいません。どうかこの物語を心地よく終わらせてください。

そして。聞き届けられるはずのない理不尽な要求に現実がかなわないのを見届けるため(!)覚悟を決めて薄目を開けて息を沈めて、画面の前に座っていたのです。

そうしたら。なんということでしょう。
信じられないほどの力技で、私の望みは叶えられてしまったのです。目の前で。

<その>映画は、あらゆる合理や整合性や、おそらくSF映画としての完成度さえもすべて投げ打って、ただひとつの目的だけを達成するために創られた強烈な映画でした。物語の暗黙の了解や前提や整合性や、そういう類のものを全部とっぱらって、「やってしまった」映画なのでした。あちこちぼろがあって、ストーリーが破綻してて、矛盾してて、もしかしたらとてつもなく陳腐で安易な、<ハッピーエンド>。

この映画は果たして良作といえるのか?ふとそんなことも気になりましたが、どうでもいいやと思いました。良作であるための条件を片っ端からかなぐりすてて、なりふり構わず「幸せ」であることを全うした作品なのかもしれませんが、だから何だというのでしょう(とそのとき私は思いました)。

こんなことってあるんだ。ありなんだ・・・。
ありなんですよ。だって、あったんですもん。
しばらく呆然としておりました。
そして、気持ちの中の、まだ使ったことのない自分でも知らなかった部分で、なんだかとても贅沢な、幸せな気持ちになりました。

この奇跡はどうやって起きたのでしょうか。
いったい誰がこんなことを?
---こんなことができるのは創り手だけです。
こんなことをできるのが創り手だったのです。すべてを放棄すれば、こんなことさえできてしまうのが創り手なのです。そして、この創り手はそのことをとてもよく知っているのです。
なんだかわけのわからない感動で胸がいっぱいになりました。
物語を作るっていうことは、こんなにも、ものすごいことだったんですね。

その映画を創った人を私は「評価」することができません。
評価なんかできません。「感謝」してるんですから。
但し。これが創り手と観客の理想的な関係なのかどうかと言われれば・・・・
・・・・・・・・・・・・う〜ん。どうなんでしょうね。


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