窓のそと(Diary by 久野那美)

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2001年11月23日(金) 誰もいない森で木が倒れた

「誰もいない森で木が倒れた。そのとき音が出るか?」
という哲学の議論がある。
たしか、実在の根拠を巡る議論(?)だったと思うけども、内容はあんまり覚えてない。
ただ、その話を聞いたとき意識がふとどこかへ吹っ飛び、見たこともない遠くの風景を捕らえて戻ってきたのを鮮明に覚えている。名前のないその風景は、それからずっと頭の中に住み着いている。
強烈な吸引力を持つ魅力的な風景。
思いを馳せれば、何かとてつもなく秘密めいた快感に包まれてぞくぞくする、不思議な風景。

<誰もいない森で>
それまで身近な経験から単純に推し量っていた世界と自分との関係の仕方が、衝撃的に再構成されてしまった。それははじめて「演劇」に触れた16のときのぞくぞくにとってもよく似ていた。偶然ではないような気がした。
どちらも、「世界は思ったより全然広かったのだ」というぞくぞくだった。

「人気(ひとけ)のない展望台に北風が吹いている。」というト書きを書いて大先輩の劇作家の先生に叱られたことがあった。「どうやって舞台化するのか。こういった表現は演劇的とは言えない。」
ちょっと、ショックだった。言われていることがよくわからないのもショックだったけど、演劇というのは、私が思っているようなものとは本当は違うのかもしれない、とふと思ったから。
人間と、人間でないものと、ものでもないものとが全く同じ資格を持って世界を共有している様子を、ぎりぎりのところまで言葉を介さずに描くことができるのが演劇だと思っていた。
言葉を介在させることで、あらゆるものを対等に扱うことができる童話やファンタジーも、その意味ではよく似ていると思うし、言葉には大いに失敗しながらも全敗すれすれのところでわずかにそれを可能にする力があると信じている。けれども演劇は、そのまんま、素手でそれをやってのけるのだ。これはものすごいことだ。・・・と、思っていた。
それなら、演劇的ってなに?
と、そのときちょっと悩んだ。

9月の末に、埼玉の劇作家の高野竜さんとお会いする機会があった。
お互いの作品を読んで興味を持っていたこともあり、初対面だったけれど妙に意気投合してお芝居の話やらどんぐりと山猫の話やらジャミラの話やら銀杏の話やら空の話やら母音の話やら富士山の話やら砂漠の話やらで盛り上がり、なんやかんやでひと晩話した。
明け方、話し疲れて朦朧としかけ、どちらかというと聞き手に回っていた私は、(何を話していたんだったか正確に覚えていないけど)高野さんの言葉にふと聞き捨てならないものを感じて言葉を返した。

「それって、つまり、誰もいない森で、木が・・」
私の言葉が最後まで終わらないうちに高野さんが叫んだ。
「そう!そう!そう!」

「・・・・・・・・・・・すごいですよねえ。あれって。」
「うん。うん。」
「なんであんなにぞくぞくするんでしょうね。」
「うん。」
「そういうことがやりたいのに・・」

寝るタイミングを失い、世界と自分との関わり方について、小学生が登校する時間まで話し続けた。<あの木>のことを同じように想い続けている劇作家のひとと話ができて、ずいぶん気持の中がすっきりした。新しく、いろんなことを発見した。
しかし。高野さんも、たびたび「上演不可能」と評される劇作家なのだった。

あー。演劇的って、いったいなあに?
あの森は、いったい、どこにあるの?
あの木はいったい・・・?

(高野作品ファンの方、一緒にしてごめんなさい。上演不可能な理由は少し違います。高野氏の作品はもっとダイナミックです。)



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