窓のそと(Diary by 久野那美)

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2001年11月03日(土) やめないかんね、あたし。

私の数少ない演劇関係のお友達・・というか、劇作家の先輩というか、<「上演困難」とか「不可能」とか言われる台本を書く仲間>というか・・の高野竜氏からチラシとメールを頂いた。埼玉在住の彼は今、宮代町の2歳から10歳までの子供たちと一緒にお芝居を創っている。あしたがその本番だそう。
ちょっと(というかかなり)遠いので見に行けないんだけど、素敵なお芝居ができますようにとお返事を書いた。単なるお知らせメールだったんだけど・・・読んで涙出そうになった。


>こどもたちは「本番終わったら終わりなのか」が心配みたいです。
>やめないかんね(やめないからね)、あたし。とか脅迫されたり。

                
10代の頃。私が演劇からいちばん最初に学んだいちばん大きなことは、
「はじまったものはおわるのだ」ということだった。
公演が終わって、片づけて、からっぽになった舞台を見ながら、
「あしたからどうやって生きていこう?」と思った。
本番が終わったのになんで明日が来るのか純粋に不思議だった。
明日が来ないはずはないのに、どうして<それ>だけが終わったりするだろうと思った。

「やめないかんね、あたし。」

・・言った。私も。
そしてずいぶん長い間、そう言い続けていたような気がする・・・。

だけどはじまったものはかならず、目の前で終わっていった。
言い続けている間、私にはそれが見えなかっただけで。
そしてその間はなにも新しい始まったりはしなかった。

 <あれはたしかにもう、おわってしまったのだ>ということを理解したとき、
新しい別の何かが当然のように始まった。
そして、続けていくというのはそういうことなのだった。
         
はじまったものは必ず、ひとつの例外もなくおしまいになった。
でも、おしまいになったもののどれひとつとして、あとに何も続くことなく消えてしまったりはしなかった。おしまいのつぎにはかならず、その次のはじまりが続いていた。
にもかかわらず、それはおしまいになる前の「あれ」とは絶対に同じものではなかった。

はじまったものが目の前でおわるのを見届けたとき。
それまでは時計の文字盤のことだと思っていた「時間」の意味を、
少し理解したような気がする。
もともと全くとりとめのなかったはずの「時間」は、
何かの終わる前と何かの終わった後のふたつにいつも分けられるのだということを知った。
それは、はじまったものがおわらなければ、時間は止まってしまって流れていかないのだということでもあった。

だけど10代やそこらの女の子にとって、「おしまい」というのはまだ、未知の世界のことばだった。受け入れることのできない、耐え難い言葉だった。

                *****
あれから、それなりにたくさんのおしまいとはじまりを経験した。
今の私は彼女たちよりちょっと(?)お姉さんになったので、

「やめないかんね、あたし。」

ということで、何が起こって何が起こらなくなるのかを少しだけ知っている。
だけど、それでもときどき・・言ってしまう。

「やめないかんね、あたし」

今の彼女たちの気持ちと、それは存分違わないような気がする。

・・・・・・・・・涙が出そうになったのは、そんなことを思ったからかな。



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