窓のそと(Diary by 久野那美)

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2000年11月16日(木) 客席はどこにあるのか  

美術の姉川さんと、舞台セットの打ち合わせをした。
「客席はどこにあるのか」というところでずいぶん話し合った。
客席は、本当はどこにあるのか…。
稽古だけしていたらわからないけどこれは大問題だ。舞台を見るたび作るたび、毎回悩んでしまう。お客さんは客席にいて舞台の一部始終を見ている。でも舞台にいるひとたちは誰もそれに気づかない。気づいてるのかもしれないけど、みんな黙っている。
どうして気づかないのか。あるいはどうして気づかないふりをしているのか。
なにか理由があるはずだ。それはなんだろう?

このことを考えてると。もしかしたら全然関係ないのかもしれないけど、昔住んでたアパートのことを思い出す。そのアパートは、窓から手を伸ばせば届きそうな距離に隣にビルの窓があって、日当たりが悪かった。用心も悪いのでそちらの窓はいつも閉め切っていたけれど、声はつつぬけだった。初老のおじさん夫婦が暮らしていた。夫婦仲はどうもよくないみたいで、夕飯時になると、おくさんがだんなさんを怒鳴りつける声が聞こえた。
ある日、「茶碗がどうの…」という決定的な会話を最後におくさんの声が聞こえなくなった。茶碗がいったい何を決定してしまったのかははっきり聞き取れなくてわからなかった。二人しかいないので、その日から、会話そのものが聞こえてこなくなった。隣は静かになった。
何ヶ月かたって。静かになったはずの隣の窓から、再びおじさんの声が聞こえてきた。
楽しそうな、弾んだ声だった。もう新しい家族が増えたのかしらと思って聞くともなく(?)聞いていたら、話し相手は人間ではなく、テレビの音声だった。
よく聞いていると会話というよりは独り言なのだった。
「伊予ちゃん〜。可愛いねえ。」
テレビをつけっぱなしにして何度も何度も、溶けるような声でおじさんは繰り返していた。
それから、隣の窓からは夕飯時になると毎日「伊予ちゃん」の出ている番組の音と、おじさんの独り言が聞こえてくるようになった。
それはほんとうに毎日続いた。数ヶ月の間、毎日、毎日…。
そういう夕飯時のすごし方もあるのね、と思いながら、なんだか腑におちない気持ちがしていた。なにが腑に落ちなかったのかは半年経ってやっとわかった。
10年近く前とはいえ、すでに第一線を退いたアイドルだった彼女がそうそう毎日テレビに出ているはずがない。よく聞いてると、毎日流れてくる音声はまったく同じもので、おじさんがあいづちを打つ個所もせりふも毎日少しも違わないのだった。

そのあと私は引越しをしたので、おじさんの夕飯のその後がどうなったのかわからない。だから私にとって、おじさんの夕飯の話はそこで終わっている。
直接見ていたわけではないし、参加したわけでもない。おじさんのせいで私の生活は別に何もかわらなかったし、わたしのせいでおじさんの生活が変化したとは思えない。ただ、晩御飯を食べるときに聞こえる音が少しずつ変わっていき、その時間の空気が少しずつ変わっていった。それはたしかに変わっていった。
その半年間の間に、自分が確かに何かに立ち会ったような気もするし、すべてが所詮、私の想像の中のできごとに過ぎないじゃないかという気もする。

なんだけど…。
客席と舞台のことを考えるとき。いつも私はこの窓のことを思い出してしまう。
窓の向こうから聞こえてきた、おじさんの夕飯の音のことを思い出してしまう。
10年たった今でも…。

ちなみに美術の打ち合わせの結果については…。ぜひ、本番を見にきてください。



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