2008年08月07日(木) |
北京オリンピックの私的費用と社会的費用の乖離
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今朝はスッキリと目覚め微熱もなかった。白血球はまだ上がってこないけど、なんとなく体調が良くなっていく気がする。ジンマシンは続いているけどね。
前回は、食糧管理制度をミクロ経済学のシンプルなモデルを使って説明してみたんだけど、ちょっと舌足らずなところがあったので補足しておく。
社会的余剰=消費者余剰+生産者余剰-政府支出っていうのは分かってもらえたと思う。
でも、鋭いあなたなら気づいているはず。
もしも、生産者余剰の増加分が消費者余剰の減少分を上回れば、政府支出を引く前の総余剰は、完全競争市場よりもでかくなるんじゃないのか?!ってことを。
その通りなんだよ。生産者は、消費者余剰の減少分よりも大きな生産者余剰の増加分を得ることができて、とっても美味しいんだ。なんといっても生産量全部を生産者価格で買い取ってもらえることを保証されているんだから。まさに、生産者保護に適した政策なんだ。
さらに、前回説明したように、政府支出分は、税収が財源だから、消費者と生産者で均等に負担する。消費者は消費者余剰を減らされたばかりか、生産者余剰の増加分の負担を強いられているわけだ。一見、消費者かわいそうー!という結論になりがちなモデルになるのだ。
…ではあるが、『国内農家の保護、食糧自給の確保といった食糧安全保障対策的な意味合いから、日本の置かれている国際的立場を考えれば』、それでもやらないよりやってきて良かったんじゃないの?って俺は思っているけどね。今は、自由米になって大分ゆるくなったけど、食品貿易、農業貿易が以前より盛んな現在、農業政策はより重要になったと思える。国民みんなが農家だって国じゃないんだからさ、国内農業を保護しようとしたらコストがかかるのは当たり前じゃん。わけのわかんない消費者代表のおばちゃんみたいな都市住民が増殖していったら、日本は滅ぶね、確実に。
だから、ご飯を食べる前には、いただきます、食べ終わったら、ごちそうさま、と声を出して言い続けなきゃいけないと思っている。
さて、 市場に委ねてしまうと却って社会的余剰を減少してしまうような場合というのも実はいろいろある。たとえば、ある企業が生産活動の副産物である廃棄物を、そばに流れる川にたれ流しにしていたら、困るでしょう?でも、規制も何もなければ、この企業にとっては、廃棄物の処理は川に流すだけで済む。費用はとても少なくて済む。このときの費用のことをこの企業にとっての私的費用というんだ。
だけど、この川には魚はいなくなるだろうし、いても汚染された魚になっちまうし、飲料水としても使えなくなるだろう。どこかで代わりの水を見つけなきゃなくなる。あるいは、河川浄化のために多くの労力が必要となる。こんな犠牲が一方で出てくる。この犠牲になってしまった費用は社会的費用というんだ。
企業が生産費用の中に、私的費用だけしか負担しないのか、社会的費用も含めるのかという問題は、昔の日本企業の公害訴訟の例、今の中国の状況から想像がつくと思う。
廃棄物を川へたれ流しにすることに対して何の規制もなければ、企業は私的費用しか負担しないのがフツーでしょ?そうすると、この企業の私的限界費用曲線に沿って生産が行われるから、需要曲線との交点は社会的費用を考慮した社会的限界費用曲線に沿って生産が行われた場合よりもたくさん生産してしまうことになってしまうんだ。
これは、イクナイんだな。企業、ボロ儲けじゃん。完全競争市場は大失敗じゃん。
この企業は川を利用することに対してお金払ってないんだもん。川の使用料を取引する市場がないってことが問題なわけだ。
ここで、ウザイかもしれないけど、政府の役割が出てくるんだね。つまり、政府の役割の一つには、こういった私的費用と社会的費用の乖離を調整をするっていうことがあるんだ。こういう仕事は民間主体ではできないからね。費用は税収でしか賄えない(ま、最近はやりのNPOやボランティアのようなシステムは否定しないけど、社会的費用を負担しようという賛同者は通常多くないからね。)。不祥事続きで国民に叩かれっぱなしの公務員だけど、本来、とても重要な仕事を担っているはずなんだな。
こんなふうに、ある経済主体の行動の結果が、市場での取引を通してでなく、直接に他の経済主体に影響を及ぼすことがある。こういうのを、一般に、外部性が存在するっていう。
川へ廃棄物をたれ流すと、魚を採って生計を立てていた人に外部効果を及ぼしてしまうでしょ。他の経済主体に望ましくない影響を及ぼすとき外部不経済というんだ(他の経済主体に望ましい影響を及ぼすときは外部経済。例としては、借景とかただ乗りっていうことになるんだけど、これは後で気が向いたら説明する。)。外部性があると、市場が競争的であったとしても、そこで決定された生産量は必ずしも望ましくならないんだ。
ま、そんなことで、外部性の存在ということも市場の失敗(市場がうまく機能せずに適切な財の生産が行われないこと。)のひとつに数えられるわけだ。
2004年08月11日(水) 原発事故に思う。
『・・・だから、原発はダメなんだ。』とか、『自然エネルギーの開発を急がなければならない。』とか、そういった飛躍的発想を言う前に、個々のプロセスをまず点検すべきなのだ。当たり前のことだが、太陽光発電施設設置や風力発電開発のためのエネルギー総量は、そこから調達されるエネルギー総量をどうしても上回ってしまう。現時点で、人間の作りえたエネルギー抽出装置なんて、原発を含めて大したことない。
大きく捉えれば、『何故、日本の電力供給の枠組みに原発を含めなければいけないのか。』くらいの議論も可能なのだろうが、如何せん、エネルギー大量消費構造を改革できるとは思えず、供給側のコスト減に期待するのみが現状だ。
ところが、社会的効用と私的効用が乖離するサービスにはコストがかかる。そのコストを削減しようとするから錆が出る。結局、電力の調達手段変更は、公営企業がやるより他ないのだ。電力民活実施から久しいのに、電力会社の寡占供給形態が変わっていないことを考えてみればすぐわかることだ。
だから尚更、電力会社には、企業倫理が問われるのだ。
もう立秋だよー。
病室で妄想する経済理論(目次) 1 愛と平和のインフレ・デフレ 経済学にハマッテしまったある入院患者のボヤキ 2 冷静と情熱のミクロ 各家計や企業の経済活動を分析するのがいわゆるミクロ経済学 3 疾風怒涛の供給曲線 人間の営む経済活動の大前提を考えてみると、それは、欲望は無限、資源は有限、この有限な資源をどう使うのか?という問題が常に立ちはだかるということになる 4 マニー・ラミレスとケン・グリフィー・ジュニアの市場メカニズム 『市場』における需要と供給の関係 5 放置プレイな完全競争市場 1 売り手と買い手が多数存在、2 価格支配力を持たない、3 同質の商品である、4 情報の共有、5 参入障壁がない、という5つの前提条件 6 いとしの消費者余剰 『消費者が求めずにいるよりはむしろ高い価格を支払ってでも求めたい財を、低い価格で購入した場合、それによってもたらされる効用』 7 ここが我慢の限界費用 生産量を一単位増やしたときに必要な追加的費用 8 微熱気味な生産者余剰と社会的余剰 生産者余剰とは、生産者が実際に受け取った額から生産のための可変費用を差し引いた額として定義 9 ご飯の美味しさと価格統制 社会的余剰を説明したときに完全競争市場下で社会的余剰は最大になるんだよ、みたいなことを書いたんだけど、それが本当にそうなるのかどうか
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