書き散らし

2003年11月30日(日)

今日は何事もなかったようで自分の中では傷付くことがいっぱいあった日だった。
他人と言う線引きの人たちはやわらかいところをほじくる。そ知らぬ顔をしてあからさまに。すぐさま消えてしまいたかった。
他人との距離が測れないし気遣いができないというのと好意が示せないのは駄目の上に駄目が何層にも重なって決定的に駄目という感じがする。

そういうときに自分のしたことに人から感謝されるとぱっと光が差したように気持ちが明るくなるのが自分自身滑稽なほどだ。あいさつだろう。
自分はすぐに押し付けがましくなるんだから、何かしてあげるというのは自分のために過ぎないんだから他人とやっていこうと思ったら恩は忘れず、自分のした親切はどんどん忘れるのがいい。どうせたいしたことなんかできてやしないんだから。だけど難しい。
かんしゃくを起こして人に当たるし悪口も言うし。他人の悪いとこだと思ってたところをそっくりそのまま真似している感じ。それもあるかもしれないが一番大きいのは自分自身のこういった感情に基づく長続きしない衝動めいた欲求に自分自身の制御が行き届いていない、というよりか手綱が切れっぱなし。このままじゃほんとに駄目だ。いや、駄目なのはこれまでもそうだから今まで以上に駄目だ。

今まで生きてきた中の五分の三くらい(細かいのかビミョーな割合だなぁ)は自分はどうせ人と関わっても仕方ないし誰も自分と関わりたくなんかないはずだからと思っていたり自分を見た人はみんな自分を蔑んでいると思っていたり何もやる気が出ないなら生きていても仕方ないんだから死んだら良いけどそれも踏み切れないとか誰もなんで死ねといってくれないのかとか思い続けたりただただいらつきを押し殺して手のひらや足の裏に嫌な汗をかいていたり頭の中が発作的な感情で真っ赤に塗りつぶされていたりした。

こういった気分の中にここの所どっぷりつからないできたけどそのバランスが崩れ始めてる。
人と付き合っていくのは今の自分じゃ無理かなぁと思う。
ところで世間は友達がいない、とか付き合いの悪い人間には冷たいものです。ポジティブ・フィードバックのよい例で持てるものの下に集まる、と言うのはお金と同じなのであろうなぁ。気遣いはやさしさで無くスキルでもできるものでしょう。何かに傷つく、と言うことを体験で知らない人間でも気遣いの猿真似はスキルを学ぶことでできるものであるようだ。それが完璧なら感謝もされようが身に染みないものならたちまちに見破られて薄暗い恨みを買うことになる。

何もない空っぽなのを人に知られたくなくている気持ちに、逃避のモードになってしまっている。今日は前も考えた事故に見せかけた自殺の方法を考えていた。でも自殺じゃほかの人の気が悪かろうから事故か心臓発作で変死、位がいいなぁ。病気でぽかりとなくなるのが良い。できれば一瞬で。行方知れず、殺害による死だと後処理やそのことがあったことで家族を煩わせるだろうしなぁ。
バンプのロストマンを聴いた。こんなことを考えても無くても明日はもう12月1日の月曜日の朝。

でもこんなこと考えるのも後二日くらいで生理だからかもな。
もうひとつショックなことはFちゃんからひやりとしたものを感じた。
こういう自分にあきれるのはうんざりするくらい納得できることだ。
溶けかけた氷の上に乗っている気分だ。


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午陸 [MAIL]