空のむこうにみえたもの
美空:misora



 人間、失格。

今日、太宰治の『人間失格』を読み終えました。

しかも、検診で受診していた整形外科の待合室で。w



結構本は読むのですが、純文学というものに触れたのは

今回が初めてでした。

中学の頃からタイトルだけは知っていた「人間失格」。

到底読む気にはなれなかった一冊。

まず、タイトルが読むことを拒ませていましたね。

マイナスイメージしか持てないタイトルでしたから。

この年になって、やっとそんなマイナスイメージな本を

手に取ろうと思ったきっかけは、集英社文庫がやって

いた夏の一冊「ナツイチ」のおかげですかね。

ブックカバーが小畑健さんが書かれた挿絵になっていて

“これは読まなくては!!!”と心底思いました。

(この時一緒に夏目漱石の「こころ」も購入)



感想は、『中学の時にこれを読まなくて良かった。』

というのが正直な感想です。

多分、読んでも意味があまりわからず、特に何かを考える

でもなく、「読んだ」という事実だけが残ったことでしょう。

この年になって読むことであれこれ考えながら読むことが

出来たのですから、やはりタイミングだったのでしょうね。

一番印象に残っている一文がコレ↓です。

(以下引用文)

いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。
いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。
一瞬間といえども、狂った事はないんです。
けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそういう
ものだそうです。
つまり、この病院にいれられた者は気違い、
いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。
 神に問う。無抵抗は罪なりや?
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も
抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れてこられて、
狂人という事になりました。
いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、
癈人という刻印を額に打たれることでしょう。
 人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。

(引用終了)

とてもショックでした。

文中には“脳病院”という呼び名で主人公が静養する

場所が登場してきます。

“脳病院”に入った人は狂人とみなされ“人間失格”の烙印を

押されるらしいのです。

ボーダーライン。

それが、明治・大正・昭和、そして現代へと受け継がれてきた

日本の文化なのかもしれません。

これは人間の悪い習性だと私は思います。

奇しくも、1909年、太宰治が誕生した年に、青森を含む

5県にハンセン病(当時:ライ病)患者の隔離施設として

公立療養所が設立されたわけですが、太宰治もそのような

時代に生を受け、生き抜いたわけです。

世の中は、こういった“自分達とは違う”何かに対して過剰に

反応するように方向づけられていき、ボーダーラインを引く

ことで安心してきた感がありますが、この人間失格の中にも

色濃くその風潮が見え隠れしているように、私は思います。

巻末に書かれてある解説文や鑑賞文を読むと、もちろん

私のような解説や感想はなく、父・子・女・死などの文学

としての要素についてのみ触れてあります。

(ま、勿論、文庫の解説や感想などに私のような意見を
 書いても出版社が差替えを依頼してくるのでしょうけど。)

ボーダーラインの向こう側に居るということは、人間では

なくなることだと書いた太宰治。

私には、この「人間失格」が世の中の不条理を書いたように

見えてしまう。

じゃ、一体どうあれば“人間”なのでしょう。

見た目ですか。

言葉ですか。

それとも個体構造(例えばDNAとか)で判別しますか。



もし仮に、この本を中学の時に読んでいたら、私はもっと

違う人格の人になっていたかもしれません。

ボーダーラインを引くことに何の疑問も抱かず、感じない、

“人間”になっていたかもしれません。

初めての純文学がこれでよかったのかどうなのか、今でも

よく判りませんが、次に控えるは夏目漱石の「こころ」です。

この「こころ」もブックカバーに惹かれて読んでみることに

したというのは言うまでもありませんが、はてさて・・・

どうなることやら。

また何か、他の人とは違う感想を書いてバカにされそうな

気がしてならない空なのでした。(苦笑)

2009年10月01日(木)
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