2007年07月27日(金)  あの傑作本が傑作映画に『自虐の詩』

先日、S.D.P.(スターダストピクチャーズ)という製作会社に挨拶に行ったとき、『自虐の詩』のポスターを見つけて、「あ、これ映画になったんですね」と声を上げた。原作の業田良家の漫画を「傑作だよ」と貸してくれたのも映画プロデューサーだったが、その人からも、読んで衝撃の雷に打たれたわたしもなぜか「映画化」という言葉は出なかった。シンプルな線の四コマ漫画に描かれていない部分、各エピソードの間にある空白を読者は勝手に想像し、感動を増幅させる。それを映画という一本の流れにして見せると、原作よりも話が萎んでしまう気がした。

ところが、イサオがちゃぶ台をひっくり返す瞬間を切り取ったポスターは、わたしの思い込みまでひっくり返してしまった。ごはんが、味噌汁が、醤油が、肉が、宙を舞う。これ、劇中でも本気でやっているのだろうか。パンチパーマの阿部寛さん、鼻に大きなほくろをつけた中谷美紀さんは、美男美女であることを忘れさせるほどロクデナシ男と不幸妻にはまっている。原作を読んだときにはこの二人の顔など思い浮かびもしなかったのに、写真を一目見ると、この二人しかイメージできなくなる。これはすごい映画になっているのではないか、とポスターにぐぐっと顔を近づけたら、親しくしているプロデューサーの名前を見つけ、試写状をおねだりすることにした。

試写用パンフからもただならぬ自信と意気込みがうかがえたが、プロデューサーの植田博樹さんが書かれたプロダクションノートが読み応えがあり、作品へのまっすぐな愛情が伝わってきて、上映前にほろりとさせられてしまった。思い通りにいかなくても投げ出すわけにはいかない作品づくりは、子育てにも似ている。誰が何と言おうと、この子(作品)は自分が立派に育てて世の中に出してやるんだ、という親(製作者)の思い、成人したわが子(完成した作品)をどうだ見てくれ、という親バカの混じった誇らしさと淋しさ……。手のかかる子ほどかわいいと言うけれど、2002年に原作に出会い、本作りに二年かけた道のりの長さもまた思い入れを深くしているのだろう。

期待が膨らみきった状態で上映を拝見したが、原作の空気をうまく醸していることに何より感心する。現在と過去、イサオの話と幸江の話、細切れのエピソードの配置は飛躍や脱線をしているように見えて、それでもちゃんと物語は進んでいる。頭で考えると辻褄を合わせようとしてしまうのだが、感覚でつなげているような印象。バランスを取ろうとせず、あえて空白を埋めない。それが四コマ漫画を読む感覚を残すことに成功している。不幸をチャーミングに演じてしまう中谷さんの幸江、台詞は少ないのだけれどギロリという目が言葉以上に語っていた阿部さんのイサオはもちろん、少女時代の幸江と熊本さんのキャスティングが「よく見つけてきたなあ」と驚くほどお見事。さらに少女時代の熊本さんと大人になってからの熊本さんとのつながりは喝采もの。原作のラストを読んだときの衝撃と感動を上回るすばらしいラストシーンを見せてくれた。

脚本の関えり香さんにはNHKの会議室で一度お会いしたことがある。若手の脚本家が集められたその会に、パンツスーツとハイヒールで颯爽と現れた美しい人だった。漢字にひらがなが挟まれた字面が目につきやすく、ドラマのクレジットなどで名前を見つけると、「お、書いてるな」と一方的に刺激をもらっていた。傑作での映画脚本デビューに、嫉妬と羨望まじりの拍手を贈りたい。

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