2007年06月21日(木)  マタニティオレンジ133 おおらかがいっぱい

6月16日の読売新聞夕刊に「知恩院のウグイス 声失う」という記事を見つけた。「鴬張りの廊下」を修復して釘を固定するため、緩んだ釘が床板の留具にこすれて発する「鶯の鳴き声」が聞かれなくなるという。「50年、100年が過ぎれば再び鳴き声が聞こえるようになるはず。それまでご辛抱を」という寺のコメントがいい。江戸初期の再建からもすでに370年経つというから、時間のとらえ方が実に大きい。おおらかだなあ、とうれしくなった。

子育てをするようになって、「おおらか」であることを大切に思う気持ちが強くなった。大阪に住む妹の純子から贈られた『おおらかがいっぱい 途上国を見てきた保育者からのメッセージ』(編集:青年海外協力隊幼児教育ネットワーク 発行:社団法人 青年海外協力協会)には、おおらかの見本市のような体験談がたくさん紹介されていて、「こんな育児(保育)もあるのか」という驚きもあって、夢中で読んだ。

幼稚園教諭あるいは保育士として派遣された日本人協力隊員は、一年から二年という活動期間の間に結果を残そうと意気込むが、現地の人たちののんびりぶりに出鼻をくじかれる。大事な会議の前でも一人ひとりの挨拶が延々と続き、やっと議題に入るかと思ったら、終了時間だけはきっちり守り、何も審議されない。約束も締め切りも守られない。日本では一週間でできることに二年かかる……。

自分だけが突っ走って誰もついてこないような歯がゆさを感じながらも、少しずつ現地の感覚を受け入れていき、やがてドタキャンされてもイライラしなくなり、雨が降れば仕事が休みかなと思うようになる。派遣先はさまざまでも、そのような変化は多くの隊員の報告記に共通していて、「みんなの時計に合わせる」ことが常識とされる日本的生き方とは違う「自分の時計に合わせる」生き方が見えてくる。

時間という「物差し」がゆるやかなのだと思う。いつまでに、何分以内に、という区切りに縛られることなく、ゴムのように伸び縮みする時の流れの中で生活をしている印象がある。

人の子であっても自分の子であっても分け隔てなく面倒を見る、叱る。赤ちゃんであれお年寄りであれ障害者であれ、手助けが必要な人には自然と手が差し出される。そんな報告にも線引きのない自由を感じた。

細かいこと、小さなことにとらわれないおおらかさは大目に見るということでもあり、大雑把さやいい加減さにもつながるから、いいことばかりではない。正確さが求められる社会では、おおらかよりもきっちりが歓迎される。

けれど、時計もカレンダーも関係なしの子どもを相手にする子育て期間中は、こちらもおおらかに構えていたいと思う。何か月には歩いて、何才までにおむつを外して、という標準をなるべく意識せず、うちの子が基準であればいい。

名前を知らず、色や形だけで物を見分ける時期、文字を知らず、絵だけで物語を味わえる時期、何かができるようになるまでの今しかない「できない時期」を一緒にじっくり楽しみたい。

おおらかといえば、先月ダンナが「小児科の先生に90か月検診はどうしますかって聞かれたけど、そんな先のことまで考えているんだねえ」としみじみと感心していたので、「90じゃなくて9・10か月だよ」と訂正し、二人で大笑いになった。

今月9日に受けた検診で、娘のたまの体重は8730グラム、慎重は67.1センチ。横は大きめ、縦は寸詰まり気味のようだけど、好き嫌いなくよく食べ、転んでも笑い、シャワーが顔にかかってもぐずらず、おおらかな子に育っているように見える。

2005年06月21日(火)  『子ぎつねヘレン』ロケ見学4日目
2002年06月21日(金)  JUDY AND MARY
1998年06月21日(日)  カンヌ98 2日目 ニース→エズ→カンヌ広告祭エントリー

<<<前の日記  次の日記>>>