障害者の「自立」について考える勉強会に出席する。「あなたは自立していますか」と聞かれたら、迷いなく、はい、とわたしは答える。理由は、自分で働いて稼いだお金で生活していく能力があるから。ところが、最近読んで衝撃を受けた『障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて』という本の中に「従来身辺自立と職業的自活に高い価値を置く伝統的な自立観」というくだりがあり、わたしの抱いていた自立観がまさにそれだと気づかされた。経済的に自立していること=自立だとわたしは思っていたのだけれど、職業に就かず、収入がなく、身の回りのことをこなすのに介助を必要とする人であっても、「自己決定を行うことこそが自立」である、と著者である全盲の社会学者・星加良司氏は説く。自分が何をしたいか、どうしたいか、主体的に決定し、主張し、実現できることが自立なのだと。
今日の勉強会では「欲しいことを欲しいと言い続けられること」が自立なのだという話があり、イソップ童話のすっぱいブドウの寓話が紹介された。手を伸ばしても届きそうにないブドウを、「すっぱいブドウ」だと呼ぶキツネの話。自分の欲求が達成されないとわかったとき、自分を納得させる理屈をつけて、理想と現実のギャップを埋める。それは、自分が傷つかないための呪文のようなもので、手に届かないものを「価値がない」と思い込むことによって喪失感、敗北感を味わわずに済む。最初から欲しくないと言うほうがラクなのだ。わたしたちは多かれ少なかれ、「すっぱいブドウ」を使って自分を守っている。失恋したときに、「つまらない男だった」と自分に言い聞かせたりして。「すっぱいブドウ」は障害のある人だけのものではない。ただ、障害がある人の場合は、人一倍努力しなくては手に届かないものが多いから、「すっぱいブドウ」の出番がふえ、ともすれば日常茶飯事となる。「人の手を介してもいいから自分の意思で実現する」「実現しなくても欲望を持ち続ける」ことが大事だという話を聞いて、自立とは生活の形態よりも心のありようなのだ、と思った。言葉の意味をつかもうとするとき、わたしは反対語を考えてみる。これまでは「自立⇔依存」だと思っていたけれど、我慢せずに遠慮せずに諦めずに意思を主張するという意味では「自立⇔抑圧」のほうが近いかもしれない。そして、「抑圧」の逆をたどると、「自由」や「解放」が浮かび上がる。
自己決定という意味において、わたしは自立しているだろうか、とわが身を振り返ってみる。欲しいもの、やりたいことは見えていて、その実現に向かって手を伸ばしている。だから、自立している、と自己判断する。では、生後8か月の娘はどうだろう。今のところ彼女の欲求はおなかを満たす、おしりをきれいに保つ、遊ぶ、寝る、といったところで、一人で出来ない食事とおむつに関しては、泣いて欲求を訴え、大人の手を借りて実現にこぎつけている。けれど、決断を迫られるような局面には向き合っていないから、自己「主張」はしていても、自己「決定」しているとはいえない。
『障害とは』の本に話を戻すと、その中に小佐野さんという方の1998年の発言が紹介されている。
「自立」には二つの側面があって、その人自身がどうしたいか、ということがちゃんと実現され、保障される、という側面も大切なわけですが、もう一つの側面として、「自立」って社会的なものであって、どんな人でもその他の廻りの人との関係の中で、そこにいることに意味があるということ、そういうことが認め合えるということが「自立」なんじゃないか、と僕は思っています。
子どもを「一人前」に育てるというのは、「自立」へ導くことだと言えるかもしれない。今はまだ生存することに必死なわが子が、やがて、どう生きるかを選べるようになったとき、その意思を尊重すること、そして、わが子が生まれてきた意味を見出せるようにすること、それが、親にできるささやかなことではないだろうか。つかまり立ちをはじめて自分の足で立とうとしている娘の姿を思い浮かべながら、自分は自分、その心をよりどころに立つことの大切さを思った。
2002年04月29日(月) 宮崎あおい写真集『happy tail』にいまいまさこ雑貨