日記雑記
ソンナモノハ妄想ダ 表紙|以前|以後
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「でもいつかきみは、さらに年を重ね、またおとぎばなしを読むようになるだろう」(ライオンと魔女・緒言)
ひとりナルニア祭りをやらかして、勢いで関連書を一冊読んでみたりしました。 関連書が80年代刊の軽い研究書。執筆者もキリスト教関係の研究をしている人だったみたいで、各論もかなりキリスト教関係の読解がされていました。それはそれで妥当で、研究というなら欠かすことのできない指摘だと思います。 でもなあ。 改訂版で増補された研究史で、キリスト教的な読解から独立した文学批評への流れが指摘されていましたが、この各論もその前段階のものだよなあ、と感じました。 キリスト教が身近ではない日本人の子どもだったことのある私だったら、もっと違うところに突っ込んでみたいなあ。瀬田訳の問題とか。厳密にルイスとかナルニアとか研究するんだったら原書で読むのが当然だろうしキリスト教の知識も必要なんだろうけど、そういうのを越えた部分に惹きつけられて、私たちは読んでいたと思うんですよね。 もう更に15年も経っているからには、また違った研究動向が見られるんだろうな…。ちょっと気になる。
再読してみて気に入ったところ:「朝びらき丸」はわりに華やかな印象があったのですが(のうなしあんよとかw)、最後の方で海中の「魚飼い」の女の子とルーシィの目が合う場面は静かでいいなと。 ファンタジーなナルニアの中でも更に未知の存在に出会う瞬間が好きなのかもしれない。「銀のいす」の地底の国の描写とかたまらない。
再読してみてわからなかったところ:「タシとわたしはひとつではなく、全く反対だからこそ、タシにつくすほんとの信心は、わたしに通ずる」というあたりから、これまで私は、タシを敬虔に信仰することには肯定的な意味があるように記憶していました。 が、「よこしまな信心がわたしにむけられることはなく、よこしまならぬ信心がタシにむけられることはないのだ」(さいごの戦い・248頁)…あれ?違った?? タシやカロールメンについて言われることがどうも私には良くわからないのですが、ナルニアという作品の限界ってこの辺にあるんじゃないかなと思うところであります。(そして私はナルニアにいけないのだろうなと思います)(更に言うならナルニアの世界は現在の時点でもう崩壊しているわけで行かれないのですが) 「ナルニア」が世界の名前であると同時に一国の名前であること、「ものいうけもの」が選ばれた存在であること、他色々。やっぱりキリスト教的な思想がルイスの中にあったんだなというのは痛感します。訓話のための物語ではないのだとしても。 「さいごの戦い」に関しては本当に一抹の「どうしてこうなってしまったんだろう」感は否めないです…。美しく閉じられたのは間違いないのだけれど、ねえ。
再読してみて気づいたこと:小学生の頃は50年前も100年前も200年前も「昔」で一括されて大して差を感じなかったのですが、落ち着いて考えると刊行が1950年代というのは結構新しいんだな、と。 もはや児童書としては半ば古典扱いされているけど、HPLの方が(やたら引き合いに出してしまうのは何となく連想するところがあったからです。きっとなんの関係も無い)古かった。「魔術師のおい」とか確かにちょっと空想科学とかそっちの時代を感じた。
再読してみて気づいたこと:ユースチスの不器用さが好きです。現代っ子ですねえ。
「あたしは、アスランの味方でさ。たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、アスランを信じますとも。あたしは、ナルニアがどこにもないということになっても、やっぱりナルニア人としていきていくつもりでさ。」(銀のいす・228頁・泥足にがえもん)
そういうわけでナルニアは私にとっていつまでも大切な作品です。 そんなに一気に読み返すチャンスはないので、うん。よい機会でした。 あと一冊、ルイスの関連著作を読むつもりです。そして映画もとりあえず楽しみです。日本語タイトルとあらすじが若干気がかりですが。
あとは、まあ、「指輪物語」を未だにきちんと読めていないのが心残りです。「読本」でもトールキンとルイスの作品傾向の違いが論じられてましたが、ナルニアはやっぱり繋ぎが大味な感じがして、ページ配分もものすごく「児童書」で、その安心感がありますね…。 私けっきょく戦記ものって苦手で。「苦手で★」とか言い続けてるわけにもいかないのですが。
…そんな感じ。 アウトプットの量を増やしたいねとは去年から言っていますが、なかなか実行に移せないで書く量も内容もぐじゅぐじゅですね。
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