旅行先のホテルの部屋で読んだ新聞のコラム
「白いパラソルの少女」−
「人間は、他の人には想像が出来ないものを覚えている。」
映画「市民ケーン」の登場人物の男が語り、 彼自身の若い日を回想する場面。
『ニュージャージーへの通勤フェリーで、 すれちがった船に一人の少女を見た。 彼女は白いドレスで、白いパラソルを広げていた・・・。』
フェリーの少女は、彼を見ることさえなかった。 だから、彼女は彼の人生に何のかかわりももたなかった。 だが、この一瞬の記憶を、彼は生涯反芻したのだ。
男じゃなくても、女のわたしでも この手の「永遠の少女」には魅かれるけど
わたしの疑問は、 なぜ「白いパラソルの少女」なのか?ということ。
「白」と「少女」という、汚れのない純粋な組み合わせが魅力なのかしら?
「少女」には、小さくて美しく可愛らしい、 そこにはまだ汚れていない、「永遠の純粋」があるから?
だとしたら、少女ではなく幼女のほうがもっと適してるんじゃないの?
わたしは自分に女の子ができたら、いつも白いドレスを着せていたい。 なぜなら、そこに、いまはもう戻ることができない、 幼女時代の汚れなき自分を投影したいから・・・
可能であれば、ずっとそのままお人形のようでいて、 大人になってほしくないけどそれは無理でしょうね・・・
思い出すのは、有名なジョンベネ事件。 リトルロイヤルといわれ、6歳の純粋な心をもち 大人の女性がもつ高貴な雰囲気と妖艶さをすでに持っていた彼女。 彼女こそ、人が憧憬する永遠の美少女だと思う。
でも、 少女や幼女といえど、油断は禁物・・・。
何にって?
そんな小さな子でも、いっぱしに恋愛対象になることかな。 子供だからって、大人の男の相手ができないかというと、そうではない。
わたしは、 彼女たちこそ、疲れた男たちを癒せる気がするのだけど・・・。
だって、 そんな彼女たちの「白」を受け入れられるのなら、
自分の汚れた「黒」を、 浄化できるのじゃないかと幻想できるでしょ・・・。
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