「僕というベクトル(上)(下)」白石文郎さん。 厚い上下巻、やっと読了しましたー。新年1発め、長いのにチャレンジ。
言わずとしれた、白石一文さんの双子の弟で白石一郎さんの息子。 1995年に『寵児』というタイトルで上中下の3巻で出したという幻の作品を タイトルを変えて2巻にして出版された文庫化作。いやースゴイわ、これ。 さすが双子だというか白石一文さんの作品に多大な影響を与えてますねー。 (ちなみに後ろに写真が出てたけど文郎さんって男前なんですねー)2人の 明らかで重要かと思う違いは(文郎さんのはまだこれしか読んでないです) 主人公の立場というか、こちらの作品の主人公の山根はごく普通のよくいる 男だということ。一文さんの方は、金銭的に恵まれていたり、賢かったり、 なんとなくそれ故のひねくれ方みたいな、勝手にそんな風に解釈してます。 実は山根の様な考えは密かに誰でももってるもので(もちろん女の私でも) う〜ん、結構色んなことがイタいっす。描写がキワどいところが多いので、 何もそこまで書かなくても...みたいなとこは正直あるんだけど、その辺りは 避けても逆にウソくさくなってしまうのかも?と我慢してみてます(苦笑)
読んでてイライラしたのが恵子。いるいるこういう人、むしろこういう人 ばっかじゃねー?!みたいな。私はちょっとでもそういうこと感じた時点で さーっと離れていきたがってしまう方なんだけど、山根の様に我慢して(?) こーやって人と付き合っていくのって大事なのかな?どうなのかな?と。 悪気がない人の押し付けがましさだったり、自分が思うことが当たり前だと 何の疑いもなくいられること、ぶつけられることが昔からすごく苦手なので。 やっぱり私は他人に対してこういう我慢ができないのであって(違う面から 言えば優しくないということかもしれないが)ものすごく逃げたいわーって 気持ちになってしまう。「うるせーよ!うぜー!」って思ってしまうのね。 逆に恵子みたいになった方がもしかしたら幸せなのかもだけど、自分が嫌だ と思うことはやっぱり言いたくない(したくない)訳で、人間同士人の心に 踏み込む瞬間ってとても難しいなーなんてそんなことを考えました。 私にとっては山根と馬場の関係が理想的です。お互いにこういうこと。 これが男同士じゃないとムリだとは思いたくないなーなんて。
------ *笑いたくて漫才を見るんじゃなくて、漫才を見て笑うのが本当なんだ、 やっぱり。人間いつまでもわかりきったことをだらだらたらたら 繰り返してちゃだめだ。
*自分の檻を守るためには、相手の檻を壊すためには、まず自分が檻から 出なくてはならないのに、しかも檻は檻にしかすぎないのに、それが わかっていないらしいのは、全く愚かで情けないように思えた。いや、 それ以上に罪深いことのようにさえ思われた。
*いてほしいときにはそこにいるし、いてほしくないときはどこにもいない
*僕が映画や小説に多少は期待し、その中に含蓄のある言葉や仕草、叙情的な 風景を捜したのは、、、(略)どんな映画も小説も急速に色褪せ、ぼやけて 見えるようになってしまった。じきにそんなものは一切無意味だと悟った。 (略)そこには何でもあるようだが実は何もなかった。そこにあるのはただ 他人の”見る”と”聞く”だけだった。そして「あなたは普段様々なものを 見すごし聞き逃しているに違いない」という勝手な思いこみでそんなものを 目の前に突きつけられ、耳に吹きこまれても僕には仕方がなかったのだ。
*誰もが何もかも知っているわけじゃないですからね。見ていないものや 見落としたものはたくさんあるだろうし自分の見方が全てだとも限らない。 だから本を読むし、映画も見るし、
*偏見でないことを言えるのは全知全能の神様だけなんだよ。バカな俺や君が 何言ったって全部偏見なんだって
*ひとつの卑俗で泡沫的な体験でしかなくてさ、別に他から強制される義務 でも必然でも神秘でもなんでもないんだってこと。つまり、あらゆる体験は 等し並みで、しかも自分自身にしか関係ない、全部自分に始まって自分に 還ってくるってことだろ。自分だけが自分に関係してるんだ。
*僕も君も誰も他のどのようにも生きられないように生きている。呼吸し、 考え、動いている。それは初めも終わりも、成長も後退も、成熟も頂点もない。 いわば完成した一個の輪の上を歩いているようなものだ。そして輪の 大きさは歩ける限りでいい。見える大地は見えるだけの広さで、 見上げる空は見上げられるだけの高さでいいのだ。
*解決はこの世を完全に捨てることにも、完全に受け入れることにもなくて、 その中間のどこかで釣り合いをとり、あるいはこの両極の間を往復する ひとつの律動を見つけることにある
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