un capodoglio d'avorio
以下、どかの勝手な妄想。
野田秀樹と同じく、劇作家の松田サンは長崎の出身地。アフタートークの中で平田サンがいみじくも看破したように、この作品のラストシーン<遠くの街が火の海になる>という設定は、原爆投下直後の「日本に見捨てられた」長崎の街、というイメージを読むことはそれほど無茶では無いと思う。
舞台セットも、かなり綿密に作り込まれたカトリックの教会堂の廃墟となっていて、頭上から鐘を鳴らすための綱が一本、垂れ下がっていて、それ以外のすでに「地に墜ちてしまった」鐘は舞台中央、瓦礫のなかに半分埋まっている。この「鐘」という装置/システムはとても面白いなあと、アフタートークを聴きながら思っていた。
モダニスト・野田サンの「パンドラの鐘」との類似を先に書いたけど、野田サンの戯曲のなかでは「鐘 ≒ 原爆」であった。決して鳴らしてはいけない音、決して聞きたくはない音、でもあまりにも人を魅了してやまない音。パンドラの箱との類似をもとに、一気にあの戯曲を書き上げた野田サンの力量はさすがだと思う(どかは「カノン」のが好きだけど、泥臭くてw)。
でも、松田サンは、その鐘の音に鼓膜を振るわせるではなく、もっとミクロな視点を導入して焦点を合わせようとした。つまり、鐘が鳴るときの構造を、現象学的に見ようとしたのである。西洋の教会堂に吊される鐘は、外側が大きく揺れて内側のベロにあたって音が鳴る。そのベロのあたり方が複雑に反響して、予測できない不思議な響きが街にこだまする(そう、ヨークミンスターの鐘の音が、広くヨークの街に行き渡るように)。内側の存在(ベロ)は動かない、自分の周りの世界(鐘のガワ)が激しくのたうち、そこに衝突が起こる。激しく振動する世界のなかで、ベロは何度も何度も打ちのめされ、その度に響きは重なり大きくなっていく・・・。
この構造は、そのまま、この劇の構造である。「西之西町」という長崎のとある離島の街に、二人の登場人物が紛れ込む。この「西之西町」では、通常の常識とはズレた詩的かつ残酷な、凛々しくも淫らな秩序が一貫して流れていて、そして加速増幅していく。ベロとしての二人は激しく打ちのめされながら、響きが劇場を満たしていく。
登場人物ではなく、その世界をグルッと動かして回転させてしまい、そこにドラマ性を生み出すのは、演劇がもっとも得意とする展開のひとつ。しかし「天の煙」は、あまりにその「周囲の世界」が突飛であり、過剰であり、欠如であるので客席もまったくついていかれない。だからこそ、客席もその二人の登場人物と同じように、知らず知らずベロとなってしまい、打ちのめされる自らが鳴らす音に囲まれながら、違和感と不安感に苛まれて行く。
でも。
鐘のなかのベロは、打ちのめされ、音を聴くことでしか、自分の存在を確かめられないのではないのか? ガワのなか、光が差し込まない、まったくのソリッドな暗闇の中、世界が動揺し自分に迫り衝突する刹那にこそ、はじめてその存在が自覚できるのではないのか? じゃあ、観客は?
と、思うとどかは、こういう舞台はいいなあと思います。少なくとも、どかは予定調和な某キャラ○ルとか某新○線では、自分の音を聴くことはできなくて、「かえって」不安になるのだもの。
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