un capodoglio d'avorio
2004年09月18日(土) |
青年団リンク・地点「じゃぐちをひねればみずはでる」 |
青年団演出部に所属している三浦基サンのプロジェクト・地点の舞台。どかは前に下鴨のアトリエ劇研で観た「三人姉妹」以来、このヒトの演出に惚れこんじゃったわけで。上京のスケジュールとちょうどマッチさせられたので、観に行く。久しぶりの駒場アゴラ劇場、ソワレ。
戯曲は、今回役者としても出演する飯田茂実サンの小説や詩集を、三浦サンが咀嚼して再構築したもの。明確なストーリーというモノは皆無で、登場人物にも統一された人格を見つけることはできない。抽象的な単語がどんどんつづられていき、そしてその単語同士もかなりの跳躍を含むので、観ているヒトはかなりのストレスがかかってくる。耳を澄ませるだけでクタクタ。そうしてクタクタになっていくうちに、だんだん言葉の意味が少しずつ抜け落ちて、音とリズムだけが残っていく。多分、この先の場所に、三浦サンが目指しているユートピアがあるのだろう。という予感だけはしっかり持って、でもその持った場所が閉幕だった。
どかは、この舞台は、あまり評価できない。それは演出法ではなく、テクストに問題があったと思う。三浦サンの「三人姉妹」で見せた演出法は、テクスト自体に鋭い切り込みを入れていく、強度の果てしなく高いものであった。チェーホフの名作戯曲に流れる叙情が、切り刻まれて震えて弾けていくときに、もういちどはかない光彩を放つ瞬間こそ、三浦サンの舞台の神髄だと思った。
でも、この舞台は、すでにテクスト自体がバラバラにされていて、しかも抽象度が高い。そこに、この国の現代演劇シーンにおいて、最も特異かつ強烈な演出法をぶつけてしまっては、あまりに荒唐無稽すぎるのではないのかしら。チェーホフの磨き抜かれたテクストなればこそ、はじけ飛ぶ前の刹那に見えるオーロラも、飯田サンのテクストではオーロラの光自体も雲散霧消してしまう。そこに残っているのは、オーロラのブレークアップが終わって消えたあとの漆黒の闇。
まだ、いろいろ試行錯誤しているのだろうなーと思う。まあ、こんな実験舞台を観られるのも、スリリングな経験ではあるから、三浦サンを信じて、レビューにしてみたり。
役者、安部聡子サンはあいかわらずすばらしい。このヒトの身体はすごいなー、どれだけカッティングが入ってもそこからテンションが漏れたりはしない。内田サンも良かった。すごいきれいなお顔、そう言えば以前「月の岬(レビュー未収録)」で観たことがあったなー。安部サンほどの強度は無いけれど、長い手足をしっかり支えて、テクストの隙間にきちんと姿勢を保って、かっこいい。飯田サン、あー、舞踏のヒトなんだねーという感じ。あの大野一雄サンの弟子らしい。肩書きはダンサー・文学者・演出家・音楽家、ともう、すごいのだけれど、ちょっとどかは舞踏家に観られがちな自己陶酔が見えた気がしてイヤだったかも。
あ、あとひとつ。音。後半のハウリングぎりぎりな大きな音、かなり不快だったので、辞めて欲しかったです。三浦サン、次に期待。
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