un capodoglio d'avorio
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2004年04月27日(火) ACIDMAN試論

久しぶりに朝、プレイリストをACIDMANにセットして通学。
で、強い酩酊感と妙な覚醒感とにないまぜに巻き込まれて、
いろいろ考えていたら、京都に着いていた。
以下、かなり無責任的な、どかのACIDMAN試論。

仮に音楽の様々な要素に点数を付けられるのだとすれば、
ACIDMANはまさに最高点を獲得するのではないか。

演奏力は、まさに鬼としか言えないほどのレベル。
歌唱力も、はっきりいってロックバンドのボーカリストのなかでは、
文句なしの高水準。
歌詞は、周到に予定調和を回避する抽象的な言葉の異化作用、
イメージの詩的な広がりは素晴らしい。
メロディは、メロコアやエモコアの歴史を丁寧に踏まえてそれを発展、
目新しさは稀薄でも、扇情的な旋律はどうしようもなく魅力的だ。
すべての「科目」の点数が、最高点に近い。
こんなバンド、いま、他にいない。
うん、いないさ。
趣味判断は「人それぞれ」だからそれにおいて評価しなくても、
ある種客観的な絶対値というのは、音楽において存在する。
チャートを賑わせているふやけた音楽を全て吹っ飛ばすほどの、
絶対値が、ACIDMANにはあると思う。

でも、どかがACIDMANを聴くとき、どうしても冷徹なもうひとりの自分を、
自分の後方3メートルにいつも感じてしまう、
そして彼は、醒めた目でどかのヘッドホンを眺めている。
きっと、それはこういうことなんだと思う。

つまり、ACIDMANがデビューに向かって敷いたレールに透けて見えた、
ある種の「戦略性」がきっと実に象徴的なんだろうな。
アルバム「創」をリリースするに先立って、
先行シングルを切っていったそのタイミングと選曲は、
実にマーケティングの理にかなっていた。
もうそれは、マーケティングを睨んで、
それをねらい打ちしたとしか思えないスキームだった。

「売れるべくして売れた」。

この「べく」は音楽性も販売戦略も全てコミコミで響く「べく」なのだ。
本当に、全てにおいて、そつなく点数が高い。
ライヴでのパフォーマンスも評価されているところで、
でもその、ライヴの熱狂にすらも、
その後方3メートルの視線は「絶対値」を見てしまう。

誤解を恐れずに、書いてしまう。
ACIDMANは、ロックンロールではない。
ロックンロール風のポップソングだ。
どかのロックンロールとポップソングの定義は、
つづめて書くとベクトルの差違で、
「天地方向」か「水平方向」だ。
ACIDMANは、どこまでも「水平方向」のベクトルに音を乗せてくる。
そこに一切の捨て曲はおろか、捨て音、捨て空白は無い。
どれだけ激しく縦にグルーヴしていても、
その基底線はまっすぐ、フロアのオーディエンスに伸びてくる。
誤解を恐れずと書いたけど、誤解されたくないところは、
だからと言ってACIDMANがミスチルやグレイやラルクと同じだとは言わない
(ましてやバンプをや)。
絶対値を比べたときに、それはもはや蟻と巨人ほどの差があるのだから
(余談:ラルクのドラムだけは凄いと思う、あとは・・・)。
ともかく、エモコアメロコアの歴史の進化を直線的に取ったときの、
最終最新最強の合理化バージョンが、ACIDMANなのだとどかは思う。

どかは、付け加えるようにしか響かないかもだけど、彼らが好き。
とくに「♪造花が笑う」「♪アレグロ」「♪赤橙」の3曲は、
おそらく3年後もiPodクンのなかに残っているのは間違いない。
この3曲は、冷徹な目が3メートル後方にあったとしても、
聴くたびに涙腺が弛んでしまう破壊力を持っている。

でもね。

ロックンロールは、こぼれおちたり、あふれだしたり、
はじけとんだりする、それこそ「飛沫」のなかにこそあると思うの。
もしくは「邂逅」ではなく「拒絶」のなかにこそ、潜むんだと思う。
最初から「邂逅」を求めることは、
いくら周到に抽象的イメージの広がりにメッセージを置いたとしても、
最後は予定調和の魔の手に落ちてしまうことになってしまう。

例えば、ナンバーガールのチャコさんのギターだ。
あれだけオーディエンスの耳のすぐ近くで炸裂しながら、
その実、よくよく追いすがってみると分かるのが、
そのどこまでも「拒絶」しつづける頑なさだ。
例えば、ハイロウズのヒロトのボーカルだ。
あんなに童謡チックな歌詞を童謡チックな発声で歌っていながら、
その実、よくよく追いすがってみると分かるのが、
そのどこまでも「拒絶」しつづける切なさだ。
オーディエンスの眼前で矢吹丈のアッパーカットのように、
スゥッと空高くベクトルがぐいーんと逸れていくその、寂しさ。
寂しさと熱狂が重なるからこそ、そこに一つの視線が生まれる。

ベテルギウスの瞬きに吸い込まれていく、フロアとステージの視線は、
どこまでいっても交わらないけれど、でもそれは赤方偏移の瞬きのなか、
軽く擦れ合わせながらお互いの存在を初めて知る。

この摩擦こそが、きっと、リアリティというものなんだと、
どかは、思う。


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