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2004年03月08日(月) 野島伸司「プライド」第9話

亜樹がいきなり独走態勢に入った。もともと潜在していた母性がここにきて強力に顕在化。すべてを拒み、すべてを受け入れて、すべてを背負い、すべての犠牲になる…、という「すべて感」こそが、ムンクが語ったグレートマザーのひとつの側面だとすれば、第9話の亜樹はまさにそんな感じ。

 亜樹 人を好きになる時って、
    誰もが自分のいいとこ伸ばそうって努力する
 知佳 最初、欠点隠したりするもんね
 亜樹 でも剥き出しに自分の欠点、さらけ出す人もいるわ
 知佳 誰のこと?
 亜樹 それでね、もし逆にその欠点がいいなって思えたら
    かわいいな、愛しいなって思いあえたら…すごく安心だよね
 知佳 でもそれって、恋じゃないよね
    どっか不安だったりするのが、恋のエネルギーじゃない?
    亜樹が言っているのは、もう恋じゃない
 (野島伸司「プライド」第9話より)

母性感情と恋愛感情はちがう。どっちが良い悪いの話ではなく。野島ドラマの世界へグッと入っていくためには、この認識をくぐる必要がある。どかはこの上記のシーン、一度観たときは「ハルのこと?」と思ったのだけれど、観直してやっぱ違うなって。亜樹が話しているのは夏川のこと。ハルとの関係を知り取り乱してしまった夏川のことだ。奇しくも第8話で、同じコインランドリーで大和相手に亜樹は、ハルとの関係について語っていたから、同じコインランドリーでのこの会話は、きれいに対称を成しているんだね。

そして、それらのさりげないシーンから浮かび上がるのは、亜樹のなかで恋愛に対して母性がグッと盛り上がる流れだ。ハルに対しては、自分は結局待ち人を待ちきれなかった「古き良き時代の女」のなり損ないだから、ふさわしくないという。そして夏川に対しては、自分は結局待ち人を待ちきれなかった裏切り者だから、ふさわしくないという。自分の幸せになれる可能性をすべて自ら断ち切ってそれでそれぞれに対してもっと引いた視点で包みこんでいきたいという姿勢、これが亜樹の母性だ。

ハルが拘置されている警察署の前で、亜樹が雨にずぶ濡れになりながら「ハルが泣いてるの」とうわごとのように呟きながら狂っていくシーン。あれはまさに象徴的だったと思う。ただ、なぜか、このシーンはやっぱり、唐突かなあと思う。それはきっと、どかのなかで亜樹の母性とまりあの母性を比べているからだと思う。まりあとはもちろん野島ドラマの名作「この世の果て」の主人公・砂田まりあだ。

鈴木保奈美演じるまりあの「すべて感」は、すさまじかった。彼女にはもともと「恋愛」が紛れ込む余地が無かった。

 佐々木 愛などいつか…
 まりあ 愛?
     違う、そんな陳腐なもんじゃない
 (野島伸司「この世の果て」第9話より)

こう言い切ってしまってそれがちゃんと説得力のあるキャラクターだった。亜樹の母性には、まだどこか、ちょっと無理してる、自分が犠牲になるのっ、という踏ん切りが見える気がする。もちろん、普通の人間ならその程度の弱さを内包して当然と言えるけれど、どかのなかで既にまりあが刷り込まれてしまっているので、亜樹のこの「踏ん切り」に向かおうとする切ない頑張りが、気になったりする。無理して選択する母性には、おのずと限界が生まれる。まりあの母性には、限界が、無かった。

とは言え。今回は、久しぶりにちょっと涙ぐんだどか。ハルが拘置されてから、この亜樹のずぶ濡れ姿と、大和の病室に這いつくばる姿をたたみかけるように繋いだカットは、やられた。

でもなあ。その肝心のハル。どかはあんまし感情移入できないんだよなー。亜樹が独走に見えたのは、ハルの恋愛感情が、まったく説得力をもって見えてこないから。何で夏川を殴りに行かなくちゃだったのかが、見えない。見えないよー木村さーん。

第9話は、確かに加速はしたけれども、何だかギッコンバッタン、やっぱりリズムは良くない。こう、フアーッと気持ちよく吹け上がるNSR500のような迫力ある感じじゃなくて。やっぱり第8話までの不出来が効いてるのなあ(爆)。ただ、復調の兆しは見えた。今回の亜樹には、野島ドラマらしい霊性が備わっていたとは思う。夏川の錯乱っぷりも、どかは好きだった。そうそう、あの正視に耐えない弱さだよ、野島サンと言えば。次の回の展開はもう、読めてしまうけれど(きっと亜樹が夏川に「結婚するから告訴取り下げて」とか言うんだろう)、その先で予定調和を崩してくれることをどかは切に期待する。


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