un capodoglio d'avorio
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2004年02月19日(木) よしもとばなな「デッドエンドの思い出」

手元にレシートが残っていて、これを買ったのが[2003年09月12日]だから、半年近くかけて読んだことになる。新大阪の駅の書店のレシート。確か、入試のために帰阪してそれでまた東京に戻るときに買ったんだ。

短編が5つ、収められていて、一応帯などには「ラブストーリー」と記されている。でもどかは「ラブストーリー」とは思わなかった。いや、もちろん出発点は恋愛なんだろうけれど、作家が書きたかったのは、それが終わったあとのことや、それの先に突き抜けたときのことであって。つまりそれは「奇跡」と言うこともできる瞬間だ。5編の短編の共通項は「ラブストーリー」と言うよりも「奇跡」と言ったほうが通りがいいものだ。

「奇跡なんて起きっこない」という言い方は、「奇跡はかならず起きる」という言い方と同じくらい、ホントで、ウソだ。それで、ちゃんと言えることを探すとすれば、こうなる。「奇跡」とは、


  ただ、予測することだけが、できないのだ

  (よしもとばなな「デッドエンドの思い出」より)


触れたら壊れそうな、けれども確かに質量を持って存在する、このデリケートな時間の淡い色彩を再現することのみに、作家の才能と努力は傾けられていると言っていい。これまで、このテーマは一貫して変わらなかった。けれども「キッチン」でドラマチックに始まった作家のキャリアを通じて、長いスランプを経験しつつも、より確実にこの色彩の再現を達成できるようになってきているとどかは思う。

そして、鳥かごの中に留まっているだけの鳥よりも、多分、そこから飛び出してしまった鳥にこそ、この瞬間が訪れるチャンスが少しだけ多く割り当てられているらしい。そしてどかが信頼しているこの作家の誠実さとは、この「チャンス」を「幸福」と決して混同しない点だ。鳥かごから出ることが決して「幸福」に繋がるわけではない、というラインをあくまで固持し続ける誠実さこそ、どかが一番、好きな点。<誠実さ=冷酷さ>なのかも知れないけれど、ならば、その一貫して変わらない、彼女の作品のヒンヤリ感が、どかは大好きなんだと思う。

鳥かごの中と、外。このイメージを、グッと心理的内面の世界へと押し出して描ききったことが、今作の、特に本のタイトルにもなってる5つ目の短編「デッドエンドの思い出」の大きな成果だとどかは思う。抽象的な言葉遊びに陥らず、表層世界の軽薄さに堕すことなく。「自分に眠るそうした恐ろしいほうの色彩」というフレーズはすごい正しさだなあとどかは感心した。正しさとは、善悪の善という意味ではもちろん無く、真実の真という意味でも無く、正確の正という意味で。

そうなのだ。この宇宙の広がりよりも広い空間が自分の中にはあって、それをスッと下の下まで眺めていくことの何と怖いことなのだろう。できれば誰しもそんな深さに気付かないで済ませられる人生を選びたい。なぜって、それに気付くことの、何と寂しいことなのだろう。でもでも、ある種の人はそうせざるを得なくなってしまう。むりやり、底なし井戸の淵に立たされる。吸い込まれそうな漆黒の闇の、ソリッド感に打ちのめされてしまう。でも、それに気付くと、日々のスペースが、グッと広がる、奥行きが、得られる。フラットな2次元の世界が、パースペクティブのある3次元の世界に変わる。そのダイナミズムが、フッと身体を軽くする。

この「フッ」が、どか的に言えば「奇跡」なんだろうなと思う。これまでのよしもとサンの短編集は、出来にばらつきが激しかったけれど、これはどれも「正しい」な筆致で素晴らしい。2つ目の「おかあさーん!」は、よしもと作品で一番、どかが号泣した作品。そして「デッドエンドの思い出」は、確かに作家自身の愛着も頷けるほどの、キャリア中ベストの作品だと思う。

蛇足だけれど「デッドエンドの思い出」に出てくる西山くんにはかなり驚いた。どかがずーっと目標にしてた架空の人格が、そのまま、具現化して目の前に表れたような焦燥感(笑)。そう、こんな男の子に、どかはなりたいんだよなあ。こういう<モデル>を提示することって、大江健三郎が前に言ってたけど、小説の重要な役目のひとつだと思う。

かつて野島伸司が自ら陥り、そして突き抜けていった「情緒レベルによる選民思想」が、最も穏やかな感触で敷き詰められてはいても、どかは先に述べた「誠実さ」と「ヒンヤリ感」にかけて、よしもとばななを支持するものである。


  自分がとらえたいものが、その人の世界なんだ、きっと

  (よしもとばなな「デッドエンドの思い出」より)


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