un capodoglio d'avorio
2004年02月17日(火) |
松本大洋「ナンバー吾(5)」 |
しかし、松本大洋はどこまで行くのだろう。大洋作品について考えるとき、どかはいつも、こんなとまどいを覚えてしまう。既に批評とか感想とかそんな付随的なテキストを受けつけないほどに、強度を持った表現スタイル。サブカル万歳だなんて、言うつもりは毛頭無いけれど、いま例えば文学で、大洋の作品ほどに革新的かつ完成度の高い作品があるだろうか?
5巻は、虹組メンバーきっての武闘派、ナンバー参(No.3)とナンバー吾(No.5)のバトルがメインプロットである。この筆致が、またおそろしい。もはや表現主義の領域に入っている。溶けていく輪郭、混ざり合う光と影、この世の形象はすべて崩れていき、代わりに浮かび出てくる感情や意志、形にならない、大切なこと。写実を超えた写実、というのか、太いペン(もはや筆を使っていると思う)で感覚的に撫で付けられた線に、無造作に隣に置かれるハイライトのホワイト。丸の内風な無菌っぽいキレイさは皆無だけれど、熊野古道を取り囲む原生林の混沌とした荘厳さが感じられる。それこそ、表現主義。
そして整理されて研ぎ澄まされた淡泊なネーム。余計な説明的セリフは皆無。けれども確実に世界観が展開していく。その世界観、もしくは展開するプロットについて、どかは語る言葉を持たない。持てない、とても。きゅうりの味について説明してくださいと言われて「…きゅうりです」としか言えないのと同じ。それは、それなのだもの。
例えば、ストーリーの背景を説明すると…。いまからずっと先の話。傍若無人の限りを尽くした人類は、地球上の生態系を崩壊させた。軍はその混乱の中秘密裏に研究を進め、創り上げた完璧な存在に人類の進むべく指針を仰ぐ。しかしその建前とは別に、研究者は自らの興味本位に研究を続け、そうして作り出された人間で構成されたのが平和隊。その上位9人のメンバーを虹組と名付け、メンバーはお互いをそのNo.で呼び合うことを好んだ。そして時のナンバー吾はナンバー王(No.1)に反抗して、女をさらって逃亡する。…ということになるのだけれど。
うーん、難しいけれど、テーマを敢えて言うたれば「さらなるアドバンス」として生きる虹組メンバーの悲哀、「アドバンス」なんて決していいことじゃない、狭い小さい古い不便な、そういうものが全ていいわけじゃないけれど、「アドバンス」の強さは辛さと裏表。と、いうことなのかな。そう理解すれば、なるほど、これまでの大洋作品、例えば「ピンポン」や「鉄コン筋クリート」などと重なってくるかな。5巻まできてようやくイメージを持つことができてきた。
それはそれとして。ともかく、この巻はナンバー参とのバトルシーンの筆致のすさまじさにつきる。もともとすさまじく意志的主観的線の強さを宿した画風だったのだけれど、一段階、完全に進んだレベルに達している。きっと、この絵は「乱れすぎだ」と拒否る読者も出てくるかも知れない。印象派に慣れた20世紀初めのヨーロッパの人たちが、表現主義を揶揄ったように。優れた才能と新しい表現は、大衆に究極は受けない。大衆を安心させることができないからだ…。
こんなふうに才能の話になると、いつも息苦しくなる。それはつまるところ自分に、才能がないから。けれども、本当に辛いのは、才能が、本当の才能を持っているヒトが、本当に、辛いのだ。
ヤギドリが草をはむ所まで下ると、春が来たことを感じる ハチはどうして花に蜜があることを知っているのかしら 鳥は誰に飛び方を教わるのかしら あの山の向こうには何があるのかしら?
(松本大洋「ナンバー吾」5巻より)
うーん、いいよね。こうやって、何気なく抜き出したネームすら、それだけで読者を震撼させる響きを宿している。そして松本大洋はきっと「山の向こう」を見てしまったことをいま、後悔して、そして後戻りできない自分の運命を嘆き、そしてその悲しみを勇気を持ってマンガにしているのだと、どかは思う。
どかはいつか、ちゃんと、本当にちゃんと、大洋作品についてきちんとしたレビューが書けるようになりたいなあと心底思うのであります。
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