un capodoglio d'avorio
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2003年11月07日(金) ハHAピPPIネNEスSS@森美術館

キルビルのテーマソングがいまだ、頭の中でオールリピートなまま、
地上52階に新しく開館した、噂の天空に浮かぶ、森美術館へ向かう。
「ハピネス」と銘打った開館記念展で副題は、
「アートにみる幸福への鍵:モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ」。
画廊に勤めてるどかの高校時代の友人・すうクンから、
この展示についての感想を聴いていた。
キルビルを観たおかげで、その先入観は全てリセットして観ることが出来、
そしてそれでもなお、すうクンの感想にほぼ、同意することになるみたい。



↑52階からの眺め、東京タワーよりも沈殿する空気の層が印象的


つまり、おおむね、だいたい、ほとんど、イマイチっていうか、
うん、あのね、はっきり言うと「つまんなかったよ」かなりネ。
ジャンクにしか見えない気持ちの悪いオブジェや、
ジャンクにしか見えない虫酸の走る映像や、
ジャンクにしか見えないまさに「お目汚し」な絵画。
森美術館は収蔵品を持たない、全て企画展のみによって構成される機関。
キュレイター(学芸員)のプロデュース能力への全幅の信頼のみによって、
その存在が保証されていると言っても良い。
これは日本の学芸員が欧米と比して軽く扱われていることへの、
鮮烈なカウンターとして発動させたいという理想が底に流れている。
確かに自らの館の収蔵品をこちょこちょ入れ替えて、
代わり映えのしない展示を年間を通してやっている「ダメ」美術館は、
枚挙にいとまがないけれど。
だから、どかは森美術館のアイデンティティーを無効だとは言わない。

言わないけどでもね。
肝心の展示のコンセプトは、今回、どうなの?
収蔵品にも縛られない(全て借り物展示)、
地面からも遠く離れて(何せ地上52階)、
土着性ももちろん切断されて(何せ六本木ヒルズ)、
時代性や地域性からも乖離して(時代、国などバラバラな展示)、
おそらくキュレイターは空高く舞い上がるカイトのイメージで、
浮遊感のなかに「幸せ」を希求する祈りを具現しようと試みているのだろうが、
どかには、その舞い上がるカイトの糸(意図?)が切れてしまって、
大気圏はおろか、はるか想像外の外宇宙まで迷走している気がする。



↑突如差し込む、全ての輪郭を赤く溶かす光


先のキルビルのレビューに即して言うと、
嬉々として99発の弾で遊んでおいて、さあ、
最後の一発、命中させなくちゃーっ。
という土壇場で、オオハズレのガーター「おーい」みたいな。
あのねえ、あまり使いたくない言葉だけど、
そういうの「センスが無い」って言うんじゃないのかなあ。
タランティーノがあれだけ遊び弾を使っているのは、
彼には「センスが有る」ことを皆が知ってそれで許してるんだよ。
「決め所は外さない」という彼の絶対の洞察は、
ふわふわ気ままに揚がる作品という名のカイトをかろうじて、
でもしっかりと繋ぎ止める凧糸となり、それでそのカイトはまるで、
大気圏を遙かに超えたところでオーロラのカーテンにたゆたう。
<パルプフィクション>とか<キルビル>は、
そんなアクロバティックな奇跡の、でも必然の結果なんだよ。



↑薄暮に染まる空気の沈殿層、でも左上、よーく見て・・・


まあ、そんな例えようもなく空しい空気の展示室の中でも、
3つ、どかが割と楽しめたのが、
ターナーの風景画と蕭白の水墨画、あとチベットの曼陀羅。
そして2つ、どかが絶句して立ちつくしたのが、
若冲の屏風、最後が52階の高みで出会った奇跡の夕焼けだ。
どかは留学中にターナーはちょっと食傷気味になるほど観たけれど、
久しぶりに観るとやっぱり良品は良品なのだねーと再発見。
蕭白は空前絶後の技量に圧倒されっぱなし、強弱のアクセントにリズム。
曼陀羅は、やっぱチベットのが一番だねえって思う。
ケルトの無限に続く蔦のループのごとく、極小から極大へとうねる眩暈。
若冲は、やはり、すごかった。
有り得ない、もう、この展覧会は、これ一本立てか?
と錯覚するほどのインパクト、突き抜け方がハンパ無い。
本当のアバンギャルドとは、こういうものを言うのだ。
そして本当のアバンギャルドは、幾多の「消費」に耐えうる粘りも持つ。
他の「現代美術」のアバンギャルドが、
ただ一回きりの「消費」でトラッシュ行きの薄っぺらさを、
恥ずかしいことにこれみよがしに誇示していたけれど、
ここには、ちゃんと「本当」があって、良かったことだよ。

そして。
奇跡の夕焼け。



↑太陽の燃焼にくっきり稜線を浮かび上がらせる、富士山!


ジャンクにしか見えない「お目汚し」の前に立つたびに、
あのキルビルの、♪チャッチャラチャラッチャッチャー!
という必殺のBGMが頭を流れてしまい、
失笑をこらえるのに必死だったどかだったのだけれど、
このときばかりは、完全に「素」に戻った。
美術を観るのに、地上から離れることにあまり価値は無いけれど、
夕焼けを観るのに、地上から離れることには価値はあるかも知れない。

私たちは捨てなくちゃなモノをたくさん抱えてはいるけれど、
捨てちゃだめなモノまで捨てちゃったら、
行き着く先は想像外の外宇宙。
そこではきっと、夕焼けも、見えない。


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