un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年09月28日(日) 松本大洋「ナンバー吾(4)」

試験直前に発刊されて、かなり焦った、コレは。
待ちに待った最新刊、ああでもワタシはしがない受験生。
千々乱れる思い、けれどもどかはそこでグッとこらえて・・・

「うん、やっぱ、買うー♪」

じゃあお前は一体何を「こらえた」のかというと、
試験直前にこれほどに刺激の強いマンガを読んで、
ココロの平衡が乱されることのリスクをこらえたのさ、フフン
(ってか、ほんっとに我慢とか辛抱、無理なのワタシは)。
ま、結果オーライだし・・・ね。

3巻の巻末の予告編に、
4巻では過去のエピソードが展開することが示唆されてたので、
予想通りの展開ではあるのだけれど、でも、
その巻き込み力は予想を超えていたなあ。
悪の権化かのような漆黒のビクトルの凄みと、
カリスマ性を遺憾なく発揮し続けるマイクの輝きが、
全編に渡って紡がれる。
そしてその2つの極の間で、少しずつ少しずつ、
階段を昇っていくユーリ(吾のことね)。
細かく設定されたディテールのおかげで、
歴史書を紐解いているかのような有無を言わせない客観性に満ちている。
いまの「不幸」とは何を「必然」として起こっているのか。
そういう客観性の魔力に満ち満ちた説得力。

まあ、3巻があまりにすさまじいプロットだったので、
4巻は懐古的なサポートとして位置づけられるのだろう。
そんなスピードの自在なコントロールも、全く非凡な作家の才能である。
何が非凡かといって、スピードを落としても、テンションが落ちないことだ。

先日の帰阪寸前、この4巻を買ってすぐ、
とよぷくサンの結婚式のためにくりぞーサンが上京してどかんちに逗留。
それでくりぞーサンが「ナンバー吾」を読んだあとでチラと話した。
どかは、この連載は、絶対宮崎駿の「ナウシカ」を意識していると思ってる。
それは、A4版というサイズだけにとどまらず、
「人類のさらなるアドバンス」という命題の存在や、
既に大量の生命が失われた黄昏の時代であるという設定、
そしてなにより、先に述べた客観性と説得力や話のスケールが、
この「ナンバー吾」に匹敵するのは「ナウシカ」くらいしか、
あるまいと思ったからだ
(もしかしたら松本サンは「ナウシカ」の執筆に入った宮崎監督の年齢を、
 自分のそれに重ね合わせて連載をスタートさせているかもしれない)。
でもくりぞーサン曰く、それもあるかもしれないけれど、
「絶対、石ノ森章太郎も入ってるよね、これー」って。

あああ!
なるほどーっ。
そうだ「009」だあ、そのまんまじゃーん!

恥ずかしいことに、あの石ノ森の普及の名作が下敷きになっていることに、
いまのいままで全く気づかなかったどかでした。
ああ、自称「マンガ読み」として恥ずかしひ。
そういえば虹組9人のそれぞれの超能力の顕れ方は、
「009」のそれに酷似している。

あと、手塚治虫のエッセンスも入っていたり、
大友克洋風の雰囲気も間違いなく紛れ込んでる。
およそ日本マンガ界の巨匠と呼ばれるヒトタチへ、
気後れも見せずに肉迫していくこの姿勢は、
決して才能の限界などではなく、むしろ逆である。
松本大洋のこういったパロディは、剽窃では決して無い。
松本大洋は、様々な影響を多彩な角度から受けつつ、それを隠さず、
さらにその要素を自らの作品として完全に消化・吸収してしまっている。
松本大洋の「パロディ」的要素とは、決して創作し続ける彼が、
転倒しないように設置された補助輪なんかでは無くて、
あえて自らの前にずらっと並べられた高い高い、ハードルなのだ。
優秀なハードラーが走るとき、決して彼の頭の高さは変わらず、
しかし恐ろしいほどの速さで頭から下の身体が躍動し障害を越えていく。

先日の世界陸上のワンシーンを思い出して、
どかは「ああ、創作とはまさにこういうことなんだろうなー」と、
漠然とイメージで思っていたのだった。

さて、この連載が「ナウシカ」を意識しているのだとすれば、
きっと、単行本も「ナウシカ」と同じ7巻まで出るのだろう。
そしてどかは、7巻で「ナンバー吾」が完結したとき、
この作品は「ナウシカ」と同列か、
もしくはそれを凌ぐ高みに位置づけられほどの激賞を得ていると確信する。
なぜ、宮崎監督の傑作を凌ぐと言い切れるのか?
あえて誤解を恐れずに言ってしまえば、
「宮崎駿よりも松本大洋のほうが、ずっと絵が上手だから」だ。


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