un capodoglio d'avorio
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2003年09月20日(土) 維新派「nocturne - 月下の歩行者 -」3

合格したわけだし、いいじゃんいいじゃん。
と、リピーターになることを決意し、昨日、再び初台へ向かうことに。
だって、これはいま、絶対観とかないと。
観ているそばからどんどん、歴史になっちゃうんだもん、
見逃さないで、息を潜めて、そこに立ち会わないと。

と、言うわけで、19日再観劇「ノクターン」。

初見の印象と大きく変わるところはない。
びっくりしたのは、やっぱり開幕10秒で泣いてるどか。
これは私が弱いのか、舞台が強いのか。
いろいろ細かいところまでじっくり見てやろう。
と、思って細部をグーッと追いかけて見続けていたのだけれど、
やはり「あら」が見えてこない、
維新派はどこまでも、完成されていたのだった。

でも、再観劇で、見えてくるものももちろんあって。
この舞台は、ストーリーやプロットを直接観客に理解させるという機能は、
初めからかなりを犠牲にしている、犠牲にして、
もっと抽象的で深い領域やゾーンで、
イメージや波動らしきものを送信しようという試みだ。
で、一昨日は実際、ストーリーはほとんど意識されずただ、
幻想的な「水」や「月明かり」のイメージにたゆたっていたどか。
今回、それがけっこう、頭に入ってきたのね、ストーリーが。
ケチャっぽいリズムで次々繰り出されるあの不思議な「うたい」の合間に、
さらに中国語やロシア語が入り乱れる裏で少しずつ進む、
カナエとシンイチロウの不思議な物語。
自分の記憶をさかのぼって、どんどん水源を遡って、
月明かりの下、大から小へ、汚から清へ、個から群へ、温から冷へ、
そして、揺から衡へ。
ああ、そうかあ、そうなんだねーと、ひとり頷きながら納得する。

やはり、維新派は、すごすぎる。
あの、2時間20分、まったくとまらずステップを激しくふみつつ、
口ずさむ「うたい」もまったくとめない、あの30数名のキャスト、
全員のスタミナたるや、異常だ、野田以上、いや、つか以上かも知れない。
あの、めくるめく舞台美術の転換、目を見張る完成度を誇る街並み。
モンスーン通過後の南国の村に漂う牧歌的陽気が、
次の瞬間には、満州のロシアキャバレーの退廃的ノスタルジーにとってかわる。
そっか、そうなんだねー・・・。

他のどの表現様式とも全く似ていない松本雄吉が作り上げたこの様式美。
この情報が氾濫している現代に置いて、
維新派のオリジナリティは、奇跡としか言いようがない。
漫画家いしかわじゅんが、鬼才・望月峰太郎を評して、
あのオリジナリティは奇跡だと言ったが、
それは演劇界でそっくりそのまま、維新派に当てはまる。

この日、一緒に維新派を観に行った某クンの感想は、
ひと言「・・・すごい」ともらしたあと、曰く・・・

  野田秀樹は、観終わったあと、感動もするけど、
  すっごい頭良い芝居だなと思う、とにかく頭の良い芝居。
  維新派は、観終わったあと、感動はもちろんだけど、
  すっごいセンスがいい芝居だなと思う、おそろしいほどセンス良いね。

あー、なるほどね、そういう比較もありだなあ。

もし、繰り返しの単調さに蝕まれてしまったら、
自覚症状が無くても、そんな心配があったらお薦めだ。
いったん自分の生活をストップして、
田舎の山奥、もしくは離島の廃鉱にある維新派の舞台を訪ねればいい。
そしてそこで起こる全てのことを、ただ、何も考えず眺めればいい。
それで、あなたの感性のアンテナがどこまで錆び付いているか、
もしくはほんの少し錆を落とせば煌めきが戻るのか、
もしくは腐食しきって使い物にならないのか、
もしくはその代わりの新しいアンテナを手に入れることができるのか。
いずれにしても、決して悪いことにはならないから。

初台で感動できなかったヒトでも、
巡礼の果てにアレを観たら、なんぴとたりともかならず涙する。
どかは請け合ってもいい。


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