un capodoglio d'avorio
2003年05月15日(木) |
扉座「アゲイン('03)」 |
副題を「怪人二十面相の優しい夜」と言う、 この劇団の、昨今のもはや代表作、再々演。 どかはちょうど二年前に再演の舞台を観ていて、 それがあまりにも美しい思い出として残っていたので、 再々演、キャストもあんまし変わってないだろうけど、 舞台は生もの、いいや、観たいのお。 と言ってチケットを獲った、同伴は仕事帰りの元同僚、 かまぽん、千秋楽、ソワレ@紀伊國屋サザンシアター。
再演から、細部にいたるまでほとんど変わってない、 純粋な再々演だった。 ストーリーは、二年前のレビューに既出なので、割愛。 老いた怪人二十面相が復活するある夜を切り取った、 美しくも切ない、ファンタジー。 再演の印象が強烈に残っていたため、それほど目新しい発見や、 驚きはもはや、なかった。 でも、近藤正臣が怪人としてマントをまとってシルクハットをかぶる。 それだけで既に、上質の舞台として成立してしまう、反則だわ。 蛇足だがどかは前から5列目中央の一番いい席、 しかし四方をぐるりと正臣親衛隊のおばちゃんに囲まれ辟易。
でも、わかるな。 おばちゃん達の気持ち。 だって、格好いいもんね、かつてのアイドル、近藤サンってば。 あの脂っこい、ねっとりした、演技ってばさ。 そしてその「かつてのアイドル・近藤サン」の復活と、 「かつてのスター・二十面相」の復活がダブって見えてくるところに、 この脚本の卑怯さがあり、そしてその卑怯さ故の吸引力は健在だった、 またも巻き込まれる。 あれだけもったいぶって間をとりまくる演技、 普通ならはったおされるけど、近藤サンが二十面相をやるという、 そのシチュエーションでのみ、この地球上で成立する。 そうなんよ、これはあて書き100%の、 近藤サンの華を舞台上いっぱいに顕現させるためだけに書かれた脚本、 集められたキャストとスタッフ、 繰り返されるダンスと演技の稽古なのさ、徹底度はいさぎよし。
前回のレビューで、扉座とキャラメルボックスを分ける一線は、 きわめてはかなく薄いと書いた、紙一重だと。 その境界線がだんだんくっきり見えてきた気がする。 「アングラに挫折した横内サン」は一応、やっぱり、 アングラの「身体性=痛み」を一度通過しているから、 どれだけ美しいセリフを書いても、そこにはノイズが入ってくる。 そこに逆にノイズがあるからこそ、美しいセリフが発する光が、 またたいて切なくきらめくのだ。 キャラメルもパッと聴くと耳障りのしないキレイなセリフだけど、 そこには一切、ノイズが入らない。 のっぺりした平板な美しさだ、光の波動が、無い。 白熱灯のベタな光線と、シリウスが発する切ない光線。 演技の質も、演出のつけかたも、脚本と同じように、 似ているけれど明らかに非なるモノなのだね。 野田秀樹やつかこうへい、松尾スズキは共感装置のチューニングを、 端から狂わせたものを舞台にのっけてくる。 それと比べると、キャラメルと扉座は、 明らかにそのチューニングを観客に合わせてくるから、 かなり脱力しながら開演を迎えられる。 でも、扉座のチューニングは上記のように、途中で少し、 ズラしてくる、観客にも気づかれないうちに。 それが扉座を、予定調和のゴミ捨て場からかろうじて救う蜘蛛の糸。 だからどかは、扉座が大好き。
さて、再々演は、どかにとって、再演よりもちょい、 パワーダウンかしら、やはし。 それは二回目の観劇だからではなく、 キャスティングの微妙な変化に拠るものだと思った。 明智小五郎が、山中たかシから佐藤累央に変わった。 でもこれはまだ面白かった、累央クン、切れてたし楽しかった。 怪人の付き人・蛭田も当然、佐藤累央ではなく若手の杉浦大介クンに。 うん、これも、ちょっと線が細くてコンプレックスが減退したけど、 でもより切なく悲しい蛭田になってて、良かった。 問題はねこ夫人だよー、 どかの中で最高ランク女優の伴美奈子の当たり役だったのにー。 今回は仲尾あずさサン。 んー悪くないんだけど、伴さんより随分スタイルが良くて、 黒いドレスを身にまとってすらっとしたプロポーション、 立ち姿はたいそう美しかったし、声優をやってただけあって、 お声もなかなか。 でもねー、伴サンの御声はそんなもんではないんだよ。 怪人を30年間支え続けた慕情を「ニャオゥ」という鳴き声一つ、 それでサザンシアター全部をキゥゥっと持ってッちゃうだもん。
10の情感の振幅を10コにしか使えない仲尾サンに対して (いやこれもすごいんだけど)、 10の振幅を0.5刻みで20コにまで刻んで表現できるのは伴サン。 その細やかさでおおざっぱな(失礼)怪人を支えて、 その華は最大顕現に達するんさ。
でも、それでも充分、観に行って良かったあ。 扉座って千秋楽のサービス、すごいんねえ。
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