un capodoglio d'avorio
2003年04月25日(金) |
NODA・MAP「オイル」2 |
控えめに、1つだけ確かに言えることは、 「忘却」してしまう人間には「復讐」する人間を責める権利を一切、 持つことはできないということ。 この舞台を観た人は、きっとこの点だけは身にしみて感じるのだと思う。 もちろん「復讐」は、誰だって避けられれば避けたいなと思うのだけれど、 でも「忘却」してしまう、時間を持たない、 「老いる」こともできず、「オイル」も持てない人間には (うーん、この辺のイメージの着地の仕方が恐ろしく素晴らしい)、 そのことについて、とやかく言っちゃいけないのだ。 最後のシーン、富士が「どうして忘れてしまうの!」と絶叫する姿を見て、 「こらこら、復讐はダメだよ、ね?」って、 大人ぶって諭そうとする人間がいるとするなら、どかは彼を信用しない。
そしてここから先はどか自身の見解が混じってくるけれど、 とにかく「忘却」を拒み時間を持って「老いる」ことを敢然と引き受けること。 ここまでは、全面的に、正しい道なのだと思う。 そして「老いる」ことから「オイル」へと進んでしまうのか、 復讐の黒い炎をうねらせてしまうのか。 ここにいたって、できるならば踏みとどまりたいと、やっぱり思う。 「老いて」、「赦す」ことができたらいいなーと、やっぱり夢見てしまう。 もう、こんな夢をみる資格すら、 あのブッシュの身勝手な殺人を止められなかった私たちには、 無いのかも知れないけれど、でもでもやっぱり、 その夢を見ること、辞められない。 でも、まずはそのためには「銘記」するココロの強さを。 胸引き裂かれる悲劇をココロに刻む、精神の強さを持ちたい。 「銘記」からは「赦す」ことを引き出す可能性がかろうじて残ってる。 「忘却」にある可能性とは、いや可能性ですらなく確実に100%、 悲劇を繰り返す温床となる。
日本人は、時間感覚が無さ過ぎる。 「老いる」こともできず、刹那的に享楽的にすぎる。 日本人は復讐法を持つかわりに「けんか両成敗」ルールを持ったけれど、 そんなのなんの誇りにも自慢にもならないことに気づかなくてはならない。 復讐法の重みを知らなさすぎる。 だからWTCの本当の意味を把握することも出来ず、 アフガニスタンとイラクのホロコーストの加害者となり、 自ら「オイル」の対象になっていることにも気づかずに、 またせっせと「忘却」に励む、励む小泉以下、私たち。 別に野田秀樹は「復讐」バンザイと言っているわけではない。 イスラムバンザイと言っているわけではない (アメリカバカ野郎と・・・は、言っていると思う)。 野田秀樹はただ、「オイル」が黒く燃えさかるその火勢のすさまじさを、 シアターコクーンのステージ上に表現しただけ。 そしてその火勢のすさまじさにどかは無力感を感じ、 その無力感の出所を、野田秀樹に教えてもらったと言うことなのだと思う。
・・・という意味で、この戯曲は幾重にも重なる時間軸と、 テーマが織り重なった、傑作なステージだと思う。 野田秀樹がこの戯曲を執筆しているときは、もちろんまだ、 この地上には最大の悲しみは降っていなかった。 バグダッド国立博物館には、ちゃんとハムラビ法典の石碑が鎮座していた。 野田はパンフに、世界が戯曲を追い越そうとしていると書いた。 こうなってくると劇作家は、現代の予言者であるという気がしてくる。 平田オリザもかつて言った。
今回は現実が創作を遙かに超えてしまったわけだ。 こういった現象は、現代劇を創る作家の宿命とも言えるだろう (「『さよならだけが人生か』再演にあたって」平田オリザ)。
だから観劇という趣味は苛酷なまでに悲しいのであり、 だからこそ、観劇は、やめられない。
(もすこし続く)
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