un capodoglio d'avorio
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2003年04月18日(金) 池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」

惣一郎に貸してもらった本、今朝、読み終える。
すでに取り返しのつかない歯車が回ってしまったことを、
痛切に実感する。
この本が出版されたとき、戦争はまだ始まっていなかった。
あとがきの最後の一節「まだ戦争は回避できるとぼくは思っている」。

そんなセンセーショナルな内容ではないけれど、
やっぱり説得力のあるエッセイ。
印象的な市井のシーンを写しとった写真と合わせて、
淡々と静かに池澤サンの筆は進む。
当たり前のことを当たり前に見て当たり前に書いているのだから、
衝撃的なクライマックスも無いし、大どんでん返しも無い。

でもね、この本が出版される前の世界と、後の世界では、
決定的に何かが壊れてしまっていて。
何かが決定的に欠落してしまったいまの世界でこのエッセイを見ると、
感傷的になるのをこらえきれない。
まだ、この本には、明るい未来への希望が感じられる。
人間の論理と知性への絶対の信頼が感じられる。
そしてそれらは失われてしまい、同じ形でよみがえることは有り得ない。
おそらく池澤サンの文中に登場する何人かはもうこの世にいないし、
本橋サンという写真家が捉えた何人かの子供はもうこの世にいない。
彼ら彼女らが再び息を吹き返すことが有り得ないのと同じように。

そういう意味では、この本の意味というのは全く無かったと言えるかも知れない。
ブッシュ大統領の言辞に強烈な違和感を感じつつ悲劇を止められなかった、
私たちに全く意味が無かったのと同じように。

けれどもそれは半分正しくて、半分はずれている。
私たち人類は、このようなエッセイを書ける作家をかつて持つことができたことを。
そしてそのエッセイは相当部数売れるロングセラーとなり、
個々の多くの想像力が作家の持つイメージと共にあったことを。
私たちは銘記することができる。
かつて爆弾が落ちてくる前には、
そこに明るい笑顔で遊ぶ子供がいたことを、
ちょうど、この写真と同じような、黒目の大きな少年のような子供のことを
銘記することが可能なのと同じように。

忘却こそが罪なのだね、きっと。
いまでも戦争は終わっていない。
インフラが壊滅状態にあるイラク南部の各都市では、
医療品も行き渡らない状態で子供たちがどんどん死んでいく。
身体はなんとか安全を保つことができたとしても、
「明日はもう死ぬかも知れない」という極限状態に追い込まれた人々は、
精神の平衡をどんどん奪われていってしまった。
誰が、略奪行為に走る市民を責めることができるのだろう。
誰が、博物館や美術館を襲う市民を責めることができるのだろう。
いちばん、一番痛みを感じているのはそこまで堕ちざるをえなかった、
彼ら自身なのに(ユネスコの物言いも、だから少し、おかしい)。
バグダッドの博物館の、頭部がこそげられた彫像の痛みの原因は、
それを遠く異国の地にあって、
テレビで茫然と眺めている私たちにこそあること。
それを自覚して戒め続けることこそが肝要なんだ。
命が損なわれ身体が損なわれ精神が損なわれ、自己の尊厳が損なわれ、
この欠落をどのように償っていくつもりなのか。

それでもまだ戦争が終わっていないことを意識する自由は残されている。
それでもまだこの悲劇が続いていくことを意識する自由は残されている。
自由というのは行使し続けることで初めて保証されるのだから、
私たちは意識することを続けて行かなくてはならない。

忘却こそが罪なのだ。

もう取り戻せない自己の尊厳と笑顔がかつてそこにあったことを目の当たりにできる、
この本は、そういうコンテクストでのみ、有効である。
地味だけど、必読書だと、どかは考える。


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