un capodoglio d'avorio
2003年04月11日(金) |
松本大洋「ナンバー吾(3)」続き |
予定調和の輪の外へ飛び出すことの、 なんと困難なことだろう。
ガリレオ=ガリレイが自らの目で「真実」を見る以前に、 彼の前には何百年と続いている大きな別の「真実」があったのだ。 彼があるとき望遠鏡を月に向けてみるまで、 いや、その望遠鏡を月に向けてみた後でさえ、 それをほんとうの「真実」として受け入れることの、 なんと難しかったことだろう。
常に、ペン先は想像力の先端を走り続ける必要がある。 想像力がならしたその地平をペンが走るのでは遅すぎる。 ある種の計算と構築こそが、予定調和に堕ちる最も巧妙な罠だもの。 かといって、ペンだけが先走ってしまっては、 想像力がそこを辿っていくことが出来るとは限らない。 限らないということは、それは「無」なのな。 ペンと想像力は常にテールトゥノーズで、 いや、むしろサイドバイサイドのドッグファイトを強いられる。 予定調和の、輪の外への、トンネルを求めるのであれば。
どうしてそこまでして、 アーティストは安心と安定を捨てることに、執着するのだろう。 「物質主義への抵抗」と簡単にワンフレーズでケリをつけることは簡単だけど、 それにしても、そんな言葉の自動性がもたらす酔いなど、 彼ら彼女らの高潔と香気をまとった凛々しい自己表現を裏打ちしている、 筆舌に尽くしがたい「ドッグファイト」の痕跡を見てしまえば刹那に醒める。 彼ら彼女らは、望月峰太郎は、岡崎京子は、野島伸司は、甲本ヒロトは、 真島昌利は、五十嵐隆は、つかこうへいは、平田オリザは、原田哲也は、 加藤大治郎は、トム・ヨークは、町田康は、そして松本大洋は、 なぜに、ある種パラノイア的性向にとらわれてしまったのだろう。
闇の中、切りたった崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。 もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、 心にしみ入るような美しさを、私は知っている (吉本ばなな「キッチン」)。
吉本ばななの神懸かり的デビュー作の一節。 こんな表現がとてもしっくりくるなあ、どかには。 きっと、どかが高校時代、百粁徒歩(ひゃっきろとほ)の思い出が、 具体的に即物的に短絡的に直裁的に、ズバリビンゴ的に、 この一節を理解する回路をどかの中に作ってしまったからだと思う。
彼ら彼女らは決して閉鎖的ではないがある種排他的なニュアンスを醸しだし、 それ以上に誠実さと凛々しさ、厳しさと優しさを宿し、 求道的な姿勢は「祈り」を感じさせる。
「ナンバー吾」とは「祈り」の書だ。
つまり、そうなのだ。
大チャン、がんばれ。
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