un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年03月29日(土) Syrup 16g "HELL-SEE"

で、これがくだんのサードアルバム(メジャーデビュー後から三枚目)。
どかはあんまし、最初聴いたときは、パッとしない印象。
"coup d'Etat"でぎらついたナイフの刃が、
"delayed"で手のひらのなかに収まって、
そしてこの"HELL-SEE"で、ポケットのなかに入れられちゃったのかなと。
そう、思ったの、最初、ちぇ、って。

でも、昨晩のライブをくぐり抜けた今、どかは1st.でも2nd.でもなく、
この3rd.を繰り返し繰り返し、聴いてる。
それはライブで聴いたから、ってわけではなく、
ライブで聴いて、それでこのアルバムの本質が見えてきたからだ。
どかはもう、シロップはあの切なくも辛い「一室」から、
扉を開けて出て行っちゃったのかなと思ったけど、そうじゃなかった。
まだ、彼らは膝を抱えて、そこにおとなしく、いたんな。

「攻撃性」と呼べるほどのササクレだった言葉はほとんど、見あたらない。
"coup d'Etat"ではもう、聴いてるヒトののど元に白刃があてがわれるくらいの、
そんな切迫感やオブセッションの嵐だったんだけど。
それで、そんな暴風吹き荒れる音の世界が新鮮で、どかは巻き込まれたんだけど。
でもね、言葉遊びじゃなく、いま、思うのは、
嵐が来る前の音が"delayed"、嵐の最中の"coup d'Etat"、で去った後の"HELL-SEE"。
そんな区分けが出来るんじゃないかって。
予感じゃなくて記憶が、そこかしこに、散乱してるような、優しさ。



 風に乗って 風に舞って
 月になって 星まとって
 掴めそうで 手を伸ばして
 届かないね 永遠にね
 (Syrup 16g「月になって」)

 Yeah, Yeah
 そのマッチを1本するたびに
 This is not just song for me
 This is not just song for me
 (Syurp 16g「(This is not just)Song for me」)


予感とは動的なものであり、記憶とは静的なものであって。
シロップはもともと静的なイメージ、バンプみたいく、
どこかに起点があって、そこから冒険譚よろしく突っ走ってく。
みたいな世界ではなく、あくまで六畳一間の一室で全てが完結する、
極めて私的な世界。

そしてこのアルバムはその静的なバンドの世界のなかでも、
もっとも動きが少ない、ただ、優しく、膝を抱えて壁にもたれて、
呼吸をしている子のイメージ、あくまでどかの中でだけれど。

夜明け前、とっても静か。
1日の24時間のなかで、もっとも世界の活動レベルが落ちて、
気温も放射冷却でもっとも下がった極小値をとり、
青い空気の中に自分の輪郭が溶けていきそうなそんな印象。
さっきまで溺れていた嵐はどこかに去ってしまって、
でも嵐にもまれていた頃よりももっともっと怖いものにさいなまれて。
それは、もうすぐ、外から聞こえてくる、
朝日が差すよりも早く、夜明けを告げる、小鳥の鳴き声。
その鳴き声が聞こえてしまったら、また、何も変わらないことを、
何も変えられなかったことに、打ちのめされてしまうから、
だから、せめて、さっきの嵐のなかに戻れたら、
なんて、埒のあかない恐怖にさいなまれる夜明け前の、一瞬、その永遠。

"HELL-SEE"とはそんなアルバムだ。

だから、例によって、ハッピーエンドはどこにもないし、
それどころかエンドロールも流れてこない。
救いはないし希望もない。
でも攻撃性もなく、そこかしこに記憶の粒が散らかってるだけ。
その粒のひとつ一つを、微分して微分して、微分しつくしたら、
きっと、上の「月になって」や「(This is not just)Song for me」みたいく、
聴いたこともないような美しいロックが生まれるんだろうなー。
節操なく無限増殖するJ-POPの浪費的美しさや、
節操なく垂れ流されるパンクブームの欺瞞的美しさではない音。

多分、"coup d'Etat"を聴いてきたから、どかの感性は、
なんとか、この五十嵐ワールドにしがみついてこれるんだと思う。
でもわずか半年くらいで、三枚のアルバムをリリースして、
水増しした、薄っぺらいアルバムかと思いきや、
どんどん「世界」を展開させていくから、ファンは大変だよ、きっと。
じゃあ、着いて来なきゃいいじゃん、いちいち、うざいッス。
とか五十嵐サンに言われてもさ、あなた、私の両耳、掴んでんですけど。
ッて感じ、痛いんだからねー、全く。

でも、好き。


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