un capodoglio d'avorio
2003年03月25日(火) |
Syrup 16g "coup d'Etat" |
Syrup 16g、「しろっぷ・じゅうろくぐらむ」と読む。 メジャーデビュー後、これまで三枚のアルバムを発表。 間違いなくいま、もっとも激しい勢いで「シンデレラの階段」を昇り続ける3ピース。 初めて聴いたのは、去年の秋、退職前夜の部屋だったと思う、 テレビで流れてた、偶然のクリップ。 なんか身体全部が抵抗してるのに、耳だけが引きずり回されて、 自由がきかない感じな吸引力で、翌日すぐにチェックした。 そのころ、最近のパンクブームには半ば飽き飽きしてたどかの耳には、 圧倒的に新鮮な何かをそこに感じ取っていたのだと思う。
ギター・フィードバックと、甘い耽美的メロディ。 破滅的精神的社会不適合的歌詞と、艶っぽい甘いフェロモン声。 どう聴いてもグランジっぽいんだけど、でもディストーション無しなクリアな開放弦。 そんな二律背反の上に、シロップの音は成立している。 簡単に「二律背反」って言うけれど、それを表現の中に取り込める人って、 かなり少ないと思うの、どかは。 大概は、そういうフリをしているだけとか、片方は嘘とか。 アンビバレンツでいることに酔っているとか。 鴻上尚史が「病気芝居」と言って断罪した、 薄っぺらいネガティブへの志向、ナルシシズムの欺瞞。 冷静に、立ち止まってみると、シロップも一見その軽薄な欺瞞かな? と思われたりするかも、短絡的にネガティブで刺激的な言葉並べたりして、って。
でもね、違うんだな。
ギター兼ボーカルの五十嵐隆は軽薄からも欺瞞からも距離をおいた、 たぐいまれな真空を生み出したかのごとく・・・
チェインソウ 冴えまくる刃 12時間使用でも平気さ めい想してる暇ないや 何か悟ってそうなことを言え (Syrup 16g「天才」)
愛されたいなんて言う名の 幻想を消去して 沈むよ嵐の船 環境と関係性と 感情の海で 沈むよ嵐の船 (Syrup 16g「My Love's Sold」)
なぜ、五十嵐はその資本主義的「二律背反」の罠から逃れられたのか。 それは、彼が狂気を志向しつつ、ついに冷静な自分の客観を捨てられなかったからだ。 彼はどこまでも現実の矛盾や病巣に冒されて侵されて、 もはや正気でいることへのあきらめという名のロープに首をかけつつ、 しかし一方でその首をかけて台に上る自分の背中を、 この人は冷静に観てしまう人なのだ。 甘いメロディに艶っぽい声、かつグランジっぽいということで、 ほとんど全ての人がニルヴァーナを想起するだろうこのスタイルに、 しかしシロップはかつて、カートが殉教したロックという土壌の、 その十字架の立てられた丘の土壌に潜むバクテリアを見てしまうのだ。
狂気に走りつつ、狂気に行くことはかっこわるいこと。 でもそこで立ち止まっている自分はもっと、中途半端でやるせない。 いっそのこと諦観にバカになって「病気ロック」まで行くか、 もしくは享楽にバカになって「応援ロック」をやっちゃうか。 でも、かわいそうに、行けないの、彼。 なぜって、見えちゃったからだね、いろんなものが。 だから、彼の二律背反は本物だ。 それが本物の代わり、シロップが失ったものは、分かりやすい希望の提示。
実際、ここには、希望といえる希望は、まっすぐ示されない。 自分を真っ先に否定しつつ周辺の絶望もバッサバッサ断罪していくけど、 代わりになにかしらのポジティブなベクトルがあるかと言えば、無い。 そこに、シロップというバンドの良心が見える、言い換えれば誠実さ。 だから、きっと、どかは、かみひとえで好きになれたんだと思うの。
"coup d'Etat"(もちろん「くーでたー」と読む)は大傑作だ。 その後の二枚のアルバムも出来はいいと思うけど、この、 ファーストインパクトを越えるものではないと思う。 一番、そのネガティブな断罪の刃が研ぎ澄まされているからだと思う。 それは歌詞だけじゃなく、音にも、そう。 そしてそれは周りを切り刻みつつ、最終的には自分の身体こそを、 一番、切り刻んでいく。 そのしたたる血を見続ける行為が、 なぜか自分の中で「化学反応」を喚起し、 淡い希望みたいなのが生まれてくるから不思議。 なんだろね、誠実さかなあと思うの、どかは、その触媒は。
今は4曲目の「手首」が一番好き。
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