un capodoglio d'avorio
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2003年03月22日(土) 野島伸司「高校教師('03)」ラス前・土管の中で

ラストのいっこまえ、土管のシーン。また、現世における愛の永遠の不可能に深く傷ついた2人は、あの公園の土管のなかで再会する。「一生、先生のこと、想い続けるよ」と以前に約束した雛に対して、「自分のことは良い思い出にして、他の男と結婚して幸せになってくれ」と郁己は約束を迫る。


 雛  簡単に言うね

 郁己 もちろん、いいひとを

 雛  先生より?

 郁己 ぼくは悪魔みたいだろ

 雛  さみしがりの、悪魔ね

 → これは以前、鏡面化の実験がばれたときに、
   「先生は悪魔だよ」と痛烈に責めた雛の言葉が下敷きに。
   でもこのシーンではとても温かい響き方、いいの。

 郁己 そしてしあわせな結婚を、こどももふたり
    運動会の二人三脚、一等を
    約束してくれ


 → ここで郁己は恋愛感情の優しさを最大限に発動させる。
   優しさとは思いやりとエゴイズムとの綱渡りのバランス。
   今は、雛も、それを知っているから、もはやむげに拒否できない。

 雛  ・・・やきもちとか焼かない人?

 郁己 そうでもないけど

 → これも以前、まだ鏡面化の実験がスムースに行われてるときの、
   雛のセリフが下敷き、ギリギリの局面で精いっぱいのユーモア、
   視聴者の心はふるえるの、すごく。

 雛  化けてでない?

 郁己 でない

 雛  ・・・やくそくしたらずっとそばにいていい?

 郁己 ああ

 雛  ならいいよ・・・約束する。

 → 郁己は恋愛感情に従って、雛のそばにずっといるという約束を破った。
   雛は逆に、恋愛感情でもって、郁己との約束をしたのだ。
   2人とも自分の本心とは相反する行動に出たのだ、相手をただ、想って。
   この雛と郁己で全く逆の嘘をつくということに、
   切ないなあ、苦しいなあと想っていた、良いシーンだなあって。
   最後の最後でも、自分の真っ直ぐな想いを、
   ただ真っ直ぐに表現できないことが、恋愛なんだなあって。
   そしてこの後、機能引用した郁己の名セリフ
   「僕を組み立ててくれた・・・」が入るの。
   恐怖や絶望といったネガティブイメージの入らない、
   きわめて創造的で希望に満ちた温かいイメージな雛へのお礼の言葉。
   それはギリギリの生き死にの風景の中で、
   敗北に瀕した「恋愛」の、最後のスパークか・・・
   郁己は目を閉じる、顔から生気が失せていく、雛の、そう。
   この時の雛の、顔だ!


この瞬間から「恋愛」とは違う別の概念が、激しく発動する:「依存」だ。そもそも郁己にも「依存」という側面は最後のこの瞬間まで、あったはずなのね。でも彼は「恋愛」をより高次の尊いものだと考えて「依存」を抑えて「恋愛」を前面に押し出していった。「僕を組み立てて」というセリフはそれの際たる発露。それに対して、雛も「恋愛」でもって、郁己を見とっていきたいと思い応えていった。けれども、永遠の、真実の、繋がりというのは、恋愛では、達成され得なかった。

  永遠の、真実の繋がりというのは、恋愛では、達成され得ないのだ。

なんというペシミスティックな、でも圧倒的なリアリティ。痛い。

その痛みを乗り越えて、しかし雛は、郁己が植物人間になっても、半身不随になっても、僅か数日の延命のために地獄の苦しみにのたうつことになったとしても、それを受け止めていく覚悟のもと、郁己に全身全霊でもって「依存」していくの。その全身全霊具合は、言葉じゃない。ストレッチャーに乗せられた郁己を見送る、雛の顔。この雛の無言の顔のみで、それを視聴者に伝えてしまう。ここにある「依存」の高貴を、凛々しさを、美しさを、強さと、弱さを・・・。すごい、野島伸司は、自らの言葉によらず、テーマを上戸彩の演技に、託したのだ!

ヘリコプターで橘を呼んで、緊急オペを託す行動に出た理由はそうではないかと、どかは思うの。今まで、死んでいく郁己が、雛に対して「依存」するという片方向な構図だった。また「恋愛」というフィールドでは雛と郁己はイーブンの双方向な美しい関係にたどり着いた。そして野島伸司は、最終話、ラストシーンに向けて、「依存」というフィールドにおいても双方向のベクトルを志向したのな。

最終話の最初、郁己は雛に対してしてあげられることがあまりに少ないことに愕然とした。そして最後の最後に、全身全霊で自分に依存してくる雛を感じた郁己は、時間の繋がりが消滅した一瞬の、永遠のなかで、真実の解放と安らぎを感じる。それは恋愛ですらない、「ミニマムな愛」。ここにいたって、土管の中で雛がした約束の真の意味を、どかは知る。

 雛  ・・・やくそくしたらずっとそばにいていい?

郁己はこの質問を聞いたとき「ずっと=死ぬまで」と思ったのだろう。でも雛にとっては違う「ずっと=死んだ後も永遠に」だったのだ。「死ぬまで」は恋愛の約束。「死んだ後も永遠に」は依存の領域。野島伸司はこのドラマを通じて「恋愛」に対する「依存」の美しさを描きたかったのかな、と思う。単に最初から、弱さに堕ちる一般的な意味での「依存」ではなく、「恋愛」を通過して、お互い強く強く、身体を張って、精神を澄ませて、感性を疾走させたのちにたどり着く、特別な「依存」。現世的な意味では、決して幸せにたどり着かない(なぜなら、この概念に添えば、生きてはいられない)、この概念が、このドラマがどかに対して見せてくれた「救い」であり「答え」だった。

だから土管というのは、とても象徴的な場所だと思うどか。狭く暗いそのイメージは、子宮の中を連想させるし、そこから出口に抜けていくことで真実の永遠に辿り着けるかもと思わせる。逆に言うと、その中では、2人はまだ、救われない。この土管のシーンで、そのままドラマが終わって欲しいという意見は、野島ファンの間で引きも切らないけれど、でもどかはやっぱり、この土管という場所は、こちらから彼方への途上にあると思うのね。現世的な幸せから、永遠の幸せへのワープホール。ともとれるのかなあ(まだ続きます)。


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