un capodoglio d'avorio
2003年03月18日(火) |
Bowling for Columbine 1 |
「ボーリング・フォー・コロンバイン」恵比寿で見てきた。いま、話題の映画。恵比寿の単館上映から始まったのだけれど、口コミで人気に火がついて、恵比寿ガーデンシネマの創立以来の記録を破る観客数。そこから全国での上映がつぎつぎ決まって、いまじゃ社会現象、一歩手前。恥ずかしながら最近までこの映画、全然知らんくて、こないだ上京してたくりぞうサンに教えてもらったの。きょうは朝から、惣一郎と。
この先は例によってネタばれがあります。その前に注意です。 どかはこれまで、自分のレビューした作品についてあんまし、 他人にまんま薦めることは敢えてしてこなかったつもりです。 でも、この映画は、絶対、お薦めです、というか観るべきです。 この地上のどこかで、すでに悲劇が始まっていたとしても、 遅すぎるということはありません、観に行きましょう。 観に行かれる人は、ご自身の判断でネタばれアリのこの先を、 お読み下さりますよう(どか)。
・・・なーんて、ここまですごい作品だなんて思わなかったどかは、その朝、ねむけまなこで「ああ、前にガーデンプレースに来たデート、懐かしいなー」なーんて、お手軽センチメンタルジャーニーかまして惣一郎にこづかれて。
ストーリー、というほどのモノはなくて、実は、ドキュメンタリー。監督・脚本・制作・主演のマイケル・ムーアがマイク片手に次々取材とインタビューを重ねてくだけの映像。テーマは1999年春、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起きた「あの」事件。生徒である2人の少年が校舎に乗り込み銃を乱射。12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺したっていう、あの事件。なぜ、アメリカは銃社会の悪夢から覚めることができないのか。マイケル・ムーアはその自分の疑問に、ただ誠実に体を張って取り組んでいくの。
と、書くとさあ、重苦しいドキュメンタリーかあ。って感じだけど、違うんだなそれが。笑える。とにかく笑える。びっくりだよ。それはアメリカ社会に救う病巣に対峙したとき、感情を先走らせたり、論理だけに縛られたりしない、絶妙なバランス感覚。それを前提にした、マイケル・ムーアという1人の人間の、たたえられるべきユーモアのセンスだ。ああいうのを本当に知的な人間って言うんだなあ。池澤夏樹も、積極的に活動されてて、頭も良いし、スジも通っていてかつ、人間であることもやめていない希有な表現者だとは思うけれど、足りないのは、このセンス。惜しいなー。というより、マイケル・ムーアを褒め称えるべきなんだね。
それで、笑わせるだけじゃなくて、どかは泣かされちゃった。きっと観る人によって、笑えるポイントも、泣かされるポイントも、それぞれだと思う。でもどかは、なんか、本当に人間って、学習しないんだなあ、バカだなあって、心底哀しくなって。高校ん時の世界史の高木先生は、今でも、どかのなかで、ベスト5に入る先生だけれど、黒板に板書しながらボソッと「人類は、なっかなか、賢くならないんですね」ってつぶやいたのが、そんときはよく分かんなかった。いまは、分かりすぎるくらいよく分かる。
数あるインタビューの中で、2人、とても良かったのはアニメ「サウス・パーク」原作者のマット・ストーン。アメリカでも日本や韓国と変わらない学歴社会が厳然とあるということ、「アメリカの自由」なんてもはや過去の幻だということ。平和で変化がなくて自分というのが他人の尺度で固定されたら、もうそれは二度と動かないという見えない足枷にとらわれていく子どもたち。閉塞感。のっぺりとした書き割りのような戦場(by岡崎京子)。
実はほんの少し自分が動けばやがて出口は見つかるのに、 リトルトンの2人の少年は出口なんてもう無いんだと諦めていた (マット・ストーン)。
そして、この歴史に残る映像のなかでもっとも美しいインタビューはロックミュージシャンのマリリン・マンソンだ。どかはマリリン・マンソンの音楽をもともと、わりと好きなほうだ。CDは持ってないけどMDは持ってる。でもこんなに知的で凛々しい言葉を持っている人だとは想像できなかったよ、あの声とあの歌詞からは。「2人の少年」が愛聴していたアーティストだというだけで、事件後、全米からつるし上げを食ったマリリン・マンソンだから、もっと、毒々しくシャウトしてもいいものなのに。すごいジェントルマンだった。この作品のラストのインタビューを飾る、某白痴のオッサンと比べたら。
メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。 そしてこのキャンペーンは、人々を怖がらせることによって、 消費へと向かわせようとする発想に基づいている。 その恐怖心が人を銃に向かわせるのだ(マリリン・マンソン)。
(2へ続く)
|