un capodoglio d'avorio
2003年03月14日(金) |
野島伸司「高校教師('03)」第10話 |
第10話「よみがえる純愛」
ホストの悠次が「享楽」を象徴し、主治医の百合子が「諦観」を象徴するとして。現代に流れてる漠然とした薄っぺらさの2つの要素を結晶させてヒトのカタチをとったらこの2人になったとして。その二極の攻勢に、虫の息で、敗北の色濃く、汚い水たまりにしずめられた2つの「理想」が、最後の力を振り絞って爆発する。その有り得ない「理想」の別名は、「純愛」。それを体現する2人とは、藤村先生と、町田雛。以下は全く別のシーンから。
藤村 純真で真っ直ぐな熱情であれば、 いささかもぶれることは無いんじゃないのかな むくわれるということを前提に、 太陽は照りつけるわけじゃないんだ ・・・あらがえない、自らの熱情にさ
雛 あたしは鏡だよ 全部分かるんだから ・・・先生だって絶対そうだよ いっぱい我慢してるけど本当は違う 本当は思い出にして欲しいんだよ ずっとずっと忘れないで、いっぱいいっぱい引きずって欲しい 出来れば、ひとりで、その後も、 誰も好きにならないでって
それぞれが敗北にまみれていく第9話までのストーリーとは、けれども悠次や百合子からのプレッシャーが全てだったわけではない。むしろ、藤村や紅子、郁己や雛の内側で負けがこんでくるというプロセス。そして、今回、身を切りながら、血を流しながら、理想に向かう行軍を進める決断も、内側に残っていた最後の光るひとかけらから。特に前回の第9話で、丹念にその敗北に向かうシーンを継いでいったために、第10話の説得力が、圧倒的な迫力で。悠次は得意の「享楽」に自壊し、百合子は自らの「諦観」の欺瞞を暴かれ、そして常に壊れつつ「理想」はより光り輝き。
・・・というか、もう、だめ。ひとり暮らししてて本当に良かったと思う。心おきなく、嗚咽できるもん。今回なんて後半30分、エンドレスに壊れ続ける涙腺。見終わった後、スッと立てないくらいに疲労困憊。前頭葉と視床下部がジンジンしびれて。それだけ本気で観ることを要求されるドラマだ。とりあえず、チャンネル合わせとこっかな♪なんて軽い気持ちでは、とても耐えられない。そんなんしてたら、うっとうしくて仕方ないと思う、このドラマは。
とにかく、1シーンごとに、張られる伏線、テーマをせおった何気ない表情、暗示性の高い小道具。例えば第10話の始まりで、郁己は自ら割ってしまった鏡を前にして茫然として「何がゆめで何がうつつか」とひとりごちる。カメラは割れた鏡に映る郁己の顔を捉えて。それは「悪魔のウソ」がばれてしまい雛への鏡面化の実験が終了したことを象徴する映像。これは一番分かりやすい手法。野島ドラマは万事が全て、こんな風な「濃いい」映像で彩られる。ストーリーの「濃さ」だけじゃないの。1話見逃しても余裕で着いていける某「GOOD LUCK」や某「美女か野獣」みたいなのとは、明らかにジャンルが違う番組。1話どころか、一言一句、きちんと観なくちゃ聞かなくちゃ、どんどんふかーくなるジャック・マイヨール的プロットに、振り切られちゃう。
正直、第9話あたりから、どんな美麗字句も、どんな批判批評も、受けつけないほど研ぎ澄まされたドラマになってきた。ここは既に、視聴者の存在すら無視された世界。海溝の奥深く、深海魚も生きてゆかれないような絶対の水圧の中、光は届かない真っ暗闇に、明かり(光じゃなく明かり)を求めるとすればそれはどこにあるのか。あるとすればどんな色をしているのか。そして、それはどれほどそこに留まっていられるのか。別に、誰しも好きこのんでそんな苛酷な海溝に降りていきたくなんかない。
それでもなんで、藤村先生はそこを降りていくの?
それでもなんで、雛はそこを潜ることを決意したん?
はっきり言えるのは、某「GOOD LUCK」の某木村○哉が「おれは空をあきらめないッスヨ」って言うときの感情とは似て非なるモノであることだけは分かる。でも、そのものずばり、どかはうまく、表現できない。できないから、きっと今でも、涙腺が壊れ続けてる。
藤村先生の脇腹の血が止まらないように。
雛と郁己の姿から、限りなく切なさが溢れているように。
・・・次は最終回。第10話は、普通のドラマの最終回なんてはるかに凌駕するほどのスピードとパワーに満ちていた。そして野島伸司はこの期に及んでまだ、傷ついた2つの「理想」をいたぶり追いつめていく手を、いささかも弛める気が無いのな。また、ちゃんとしゃんとして、一週間後にはテレビの前に座んなくちゃ。・・・でも、今は、この涙とあの血と、その切なさの中で。
追伸:いま、この、京本政樹の演技を知らないことは、一生の不幸だとどかは言える。もはや茶化すこともできない。敬意を表したいの。
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