un capodoglio d'avorio
2003年03月07日(金) |
野島伸司「高校教師('03)」第9話 |
第9話「壊れかけた先生」
あんまし客観的に観ることができなかった、この回は。あかん。思考、ていし・・・。
藤木直人が、いい。とてもいい。黙っていても、抑えた会話をしていても、狂気の匂いを漂わせている。なんか、この匂いが無いと野島ドラマって感じがしないもん。でも、つまり、今回は完璧、野島ドラマだった。
京本政樹もさすがだ。自分が、脚本家に何を期待されているのか、言葉じゃなくて身体がちゃんと知っているみたい。ちょうどそこの、そうその穴ぽこを埋めて欲しいっ、ていうときにちゃんと埋めてくれる。あと、そのごほうびかな?野島さん、藤村先生にすごい良いセリフをたくさんふってる。今回なんて、藤村先生のは全部抜き出して、名セリフ集を作って、ひとつ一つ、解説してみたいくらい。深い言葉、ばかり。
上戸彩、受けの演技がいいな。すごい、細やかに相手のセリフを受けていく。常に立ち位置を微妙に変えて、対応していく。それが町田雛というひとりの高校生の感受性の豊かさを、言葉じゃなくて画面で伝えてくの。かあいい。らぶ。
・・・ああ、やっぱりだめだな。冷静にいろいろ、ホントにいろいろ考えなくちゃいけない言葉が降ってきたんだけど、どかが掲げてたブリキの洗面器には、穴が空いてたみたい。というか、空けちゃったんだろな。もう、テレビの前で苦しくて苦しくて。
もう、あきらめる。かじょう書きに書きちらしてしまおう。
1:純粋な愛を求めていくことの断念(藤村先生) 「不健全なカラダに健全なココロ」と「健全なカラダに不健全なココロ」 結局前者をあきらめて後者に移行・子供という代替物で愛の補填 ソニンを切って、かおりと婚約へ。
2:「純粋な愛」以外の感情の限界(雛) だまされていたことのショックにまみれながらも雛はホスピスを志向する ←愛ではない・・・バスの窓に、ハートを描けなかった。 ←じつは養子であった郁己がかわいそう・・・同情。 ←かつて優しくしてもらったから・・・感謝、ギブアンドテイクの関係。 しかし百合子にホスピスは甘くないと叱られ、結局あきらめる。 同情や感謝の気持ちでは、生と死の境界線の綱渡りはできない →ゆえに、本質的にヒトは孤独である。
3:時間の残酷さ(郁己) 時間はいろいろな痛みをいやしていく優しさを持ちつつ、 一方ではその痛みを顕在化させていく限りない残酷さを持っている。 第9話というのは、つまるところ、その時間の残酷さのみ。
・・・この時間の経過を継いでいったそれぞれのカットがね、もう身にしみる。どかは思うのだけれど、ヒトは自分の「容器」以上のものを受け取ることはできない。想像力はけっして最初から無限であるわけがない。
どかはかつて、本当に、もう、どうでもいいって思ったことがあって。引きこもっていた自分の部屋の空気がかぎりなく薄くなってしまったとき。朝、まわりが明るくなることがイヤでイヤで仕方がなかったとき。幻視と幻聴が、友達と話すことよりもホッとできるくらいのとき。そのときのどかと、ほんっとに一緒だった。郁己の行動。分かりすぎるくらい分かった。こんなの、勝手な過剰などかの感情移入かも知れない。でも、最後のシーン、雛と郁己が電話で会話していて、郁己が初めて雛のことを「きみ」じゃなくて「ひな」って呼んだとき。「君がいないと生きていけない」と言ったとき。そのときどかはファントムペインに襲われて、苦しくて苦しくて苦しくて。
そう。ヒトはああいうふうにストーカーになっていくのだし、ああいうふうにわらにもすがっていくのだし、ああいうふうに一度は自嘲してとりつくろってみて、そしてああいうふうにあのタイミングであの声で、泣くのだ。
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