un capodoglio d'avorio
2003年02月02日(日) |
野田秀樹「売り言葉(VTR)」 |
きょう、時間が少し空いたのでなつなつから借りてた芝居のビデオを観る。 野田秀樹の「売り言葉」。 どかは芝居は生で観なきゃ、とやかく言う資格は無い。 と、思っているから、ちゃんとしたレビューにはしない (だから、カッコ付き)。 でも、かなり衝撃的だったので、書く。
主演、大竹しのぶ。 高村智恵子に扮して「優れた言葉」が獲得してしまう、 自動性と残虐性に追いつめられていくサマ、かなり、痛い。 冒頭の明るさと終盤の暗さの対比。 高村光太郎という詩人が物した最高傑作、 「智恵子抄」の欺瞞を暴いていく。
というか、つくづく、野田秀樹はマゾヒストだと思う。 偽悪的というか、自嘲冷笑の紳士というか。 もちろん、キャスティング自体がゴシップを覚悟した、 偽悪的なものに相違ないのだけれど、それ以上に。 劇中、言葉の「悪」をこんなに鮮やかに紡ぎ出していくこの戯曲を、 書いているのは、自分なわけだ。 どかが認めるまでもなく、 野田秀樹は夢の遊眠社のころから「言葉の錬金術師」の異名をとるほどの、 言葉を選ぶセンスには卓越していた (ちなみに「言葉の愛撫師」とは鴻上尚史の自称)。 詩人と劇作家で、職業としては異なるのかも知れないけれど、 その「悪」を掌中に納めてしまった点ではおんなじで、 じゃあ、その「悪」に翻弄され続けてしまう智恵子の「愚かさ」とは、 この舞台を観て笑ったり泣いたりしている私たちのそれなのな。 その批評の刃の圧倒的な切れ味、 そしてその刃を巧妙にカモフラージュする技巧、ケレン。 鴻上がストレートな小劇場界の「ブルーハーツ」だったとすれば、 野田はスマートな小劇場界の「ユニコーン」だなと、ひとりごちるどか。
舞台美術も秀逸。 同じケレン味たっぷりな鴻上の「ピルグリム」と比べると、 あまりにも洗練度合いが違いすぎる。 シンプルに見せておいていろいろ多重的な意味合いをそこに潜めさせる、 その技法はもはや専売特許。 照明、音響も、ビデオで見る限りはパーフェクト。 そして「演劇界最強の巫女」大竹しのぶは、 戦慄という言葉の意味を知らしめるべく、そこに、いる。 前半の軽く流したいシーンも若干重ためになってしまうという、 イマイチな点もあるにはあるけれど、 そんな些細な批判をぜんぶぶっとばすほどの終盤の熱演。 けれども涙は流れない。 その熱い熱い演技は全て、高村光太郎の欺瞞を明らかにしていく装置。 ロングパンされた引いた視点で観客はこの舞台を観、 心の底にそっと沈殿する青い悲しさをすくい取る。 つかの舞台がどんどんクローズアップしていく、 客席の間近に展開するドラマであるのと、これまた対照的に。
あー、チケット、取ろうと思えば取れたんだよな、これ。 でも、何かしら思うところがあって、敢えて取らなかったんだよ、どか。 あー、後悔。
何となく、いままでちゃんと観てきた野田の舞台を、 きちんとレビューに落としていこうと、ぼんやり思った。
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