un capodoglio d'avorio
2003年01月09日(木) |
野島伸司「高校教師('93)」2 |
真田広之の「高校教師」って知ってる?
っていまの民舞の現役の子に聞いたら「聞いたことはあるけれど見たことはないですね」って。そやろなあ。もう10年も前の話やもん、こんなドラマ、小学生がまじまじ見てたらちょっと引くな、さすがのどかも。そこいくと、OBOGに聞くと、さすがに「見てた見てた」ってゆう人がけっこういて、安心などか(というかジェネレーションギャップで何を安心するのだ私)。で、よくそのあと話題にのぼるんが「ラストシーンについて」。
あの「ラストシーン」は確かに印象的だった。小指を赤い糸で繋いだ二人が、座席でぐったり。「死んでんの?生きてんの?どないなったん彼らはあ?」という疑問があとを引く、悪くいえば釈然としない、良くいえば余韻を残した演出だった。野島伸司自身はインタビューであのシーンの解釈について「見た人がそれぞれ決めればいい」と言ってた。でもこの脚本家のことばは、きっと「続編」を作りたがってたTBSへの配慮をみせたものだとどかは思ってる。
だって、どう見ても、あれは死んでたやん二人とも。
「ラストシーン」の最後のカットは、二人の席横の車窓の風景。でも窓は結露であんまし見通しがきかない。その結露の窓に「何か」が指で書いてあって、でも窓の向こうも明るくて、乱反射のためにその「何か」が光ってわからない。何やろか?って視聴者が思った瞬間、列車はトンネルの中に入り、その窓に書いてあった「絵」が浮かび上がる。それはかつて、二人がお互いに交わした記号。幸せの象徴である、つがいの猫の絵。このわずか数秒の演出に、その昔どかはしびれた。凄すぎる。
トンネルという<暗闇=死>の世界に入ることで初めて、二人の愛は完全な形で成就することができたの・・・なんて解釈は、字面にするとあまりにも直裁的でくだらない。視聴者はただ、あのフッと浮かび上がった二匹の猫に涙をするだけでいい。そのとき、それだけをしていれば、自分の心のなかになにかが引っかかって残ってくもん。
・・・
たとえば生徒と先生という壁、たとえば年齢差という壁、たとえば家柄・ステータスという壁、たとえば近親相姦という忌みへの壁。真田広之はそういったいちいちに傷つき、おののき、逡巡しながらも、桜井幸子とともに一つ一つ乗り越えていく。「愛」という曖昧な概念は、壁・障害があって初めて成立するかのように、だんだん浮き彫りにされていくテーマ。そして真田・桜井の二人の「愛」への彷徨に対するカウンターパートとして、京本政樹演じる英語教師の存在がある。
京本の女性への歪んだ執着は、当初、レイプなどの事件に即して、忌まわしい感情として視聴者の前に現れるが、だんだん、その「歪みかたの純粋さ」という奇妙な説得力が展開される。野島伸司が脚本家としてもっとも非凡な才能を見せるくだり。赤井英和演じる体育教師にボコボコに殴られる京本の台詞の一部・・・
僕は何も悪いことはしてないのに… 悪いのは、僕を愛さない女たちじゃないか 愛されることばかり求める女たちじゃないか! 僕はただ、誰かに愛されたかっただけなんだ…(第9話「禁断の愛を越えて」)
そして、最終話、この禁断の愛の物語に幕を下ろす、有名な真田のモノローグ。
僕は今、本当の自分がなんなのか分かったような気がする いや、僕だけじゃなく人は皆 恐怖も、怒りも悲しみもない まして名誉や、地位や、すべての有形無形の物への執着もない ただそこにたった一人からの、永遠に愛し、 愛されることの息吹を感じていたい そう…ただそれだけの 無邪気な子供に過ぎなかったんだと…(最終話「永遠の眠りの中で」)
この類似!京本は決してただの変態の悪役ではないんよ。むしろ「愛」という曖昧模糊としたイメージへの肉迫を試みた勇者の一人としても、とらえることが可能だったんさ。もう一方の勇者である真田と桜井は、21世紀を見ることなく玉砕した。そして・・・赤井英和にボコられながらも、京本は生きながらえ、そして「高校教師('03)」に再び降臨する。
これが、あしたから始まる、すでに傑作であることが宿命づけられているドラマで、どかが京本政樹に注目する理由。
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