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2003年01月07日(火) 野島伸司「高校教師('93)」1

この冬、一番の注目ドラマは間違いなく、TBS金曜10時の「高校教師」。野島伸司の伝説のホンが新作でよみがえるだけでも振り切れるくらいレッドゾーンなどか。それにかててくわえて、主演・上戸彩。だめだ、もう・・・(バタン)。

それに先駆けて、TBSが去年の暮れ、夕方の時間帯を使ってちょうど10年前のあるドラマを再放送してた。平均視聴率21.9%、最高視聴率33.O%(ビデオリサーチ関東:ドラマ不況のいまはとても有り得ない高いポイント)を記録した、桜井幸子・真田広之主演「高校教師」。それまでに「101回目のプロポーズ」や「愛という名のもとに」など、CX(フジ)系列でヒットを飛ばしてはいたけれど、まだ「ブーム」と言われるような社会現象にはなっていなかった1993年初頭。電撃的にCXからTBSへと移って世に送った「高校教師」をきっかけに、「人間失格」「未成年」という、世に名高い「TBS三部作」を放ち、「野島ブーム」という社会現象を巻き起こす。この再放送されたドラマは、そんなムーブメントの先鞭だったのね。

どかの中でも「高校教師('93)」はまぎれもなく傑作な位置づけ、前に日記にも書いた「ランキング」でも<東関脇>なのさ。「S.O.S.」や「美しい人」には劣るものの「ひとつ屋根のした」や「リップスティック」よりは上位。「本当に良いモノは、回数に耐えうる」というイイ見本で、若干ディテールに古さが見えたりするものの、21世紀にも通用するインパクト。うーん、好き。ことしの「高校教師('03)」を観るまえに、復習しとこ。と思って、ぼぉっと観ることにした。

リチャード・ドーキンスという生物学者の「利己的な遺伝子」が基底音として全編に響いていく。その説に基づいて真田演じる生物教師・羽村は<愛>というあいまいな概念を、どんどん破壊していく。

  コウテイペンギンは、仲間を生け贄にすることで、
  アザラシに対する安全を確保する。

  カマキリの雌は交尾をする前に、すきあらばと、
  雄の頭をかみ切って、それを食べてしまう。

そんなエピソードから、羽村は<母性愛>さえも、美しい無条件の気持ちではなく、利己的な幻想に如かないという結論を導く・・・

・・・衝撃っす。

疲れる日常、会社や学校が終わって、さあ一時の現実逃避、甘く酸っぱい恋物語を観ましょうよ、ってテレビのチャンネルを合わせた世の多くの視聴者に対して、炸裂するライトカウンター。「現実の生活がもう、すでに充分大変なのに、なんでドラマでまで辛い重い気持ちにならなあかんの?」ってどかの知り合いがゆってた気がする。

・・・でもリアリティって重いものやん、もともと。

つかこうへいが暑苦しくて重たいのとおんなじ意味で、野島伸司は冷たくて重たい。でも野島伸司も、つかと同じく、めちゃくちゃロマンティストだと思う。はんぱな軽いロマンチストじゃあなくて、本気で純粋なロマンティスト。だから「はんぱ」とか「軽い」それをとうてい認められなくて、許せなくて、だからそんな軽薄な輩に対するカウンターパンチをドラマ前半からバンバン決めていくのだ。しかし、そのパンチは自分の身体もどんどん傷つけていく諸刃の刃で。どんどん自身で削っていく、自身の理想(ロマン)がドラマの最終回までに果たして少しでも残っているのか。いくらかでも残っていればそれこそが理想(ロマン)だけど、もしかしたら何も残らないんじゃないだろうかという不安、この脚本家の「不安」こそ、TBS三部作のころの野島ドラマに漂うリアリティの正体だと思う。

最近の野島さんてこの「不安」が薄れちゃうことが、中途半端な印象に繋がってると思うどか。「ゴールデンボウル」とか「フードファイト」とかそうやんな。でも実際に、この、

 <全てを否定しきった果てに、濾過され残ったモノを求める作戦>

で実際になにも残んなかったドラマがあってそれでおよび腰なのかな(これは「世紀末の歌」、かなり面白いドラマやったけど、本末転倒!)?

ドラマ終盤に向けて、どんどん濾過をかけていく真田広之と桜井幸子。脇役も全てがハマっていて、鉄壁の世界観を構築している。この濾過の構造が見えたら、きっと、どんなにえげつなく暗い野島ドラマにでも入っていけると思うんだけどな、みんな。


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